仏道を学ぶ者が仏法において修得した福徳、あるいは弘法のために修めた福徳は、全て定数があり、限量のあるものです。限量ある福徳を世俗法に多く用いれば、仏法修証に使う福徳は少なくなり、両者は秤の両端のように、一方が下がれば他方が上がる関係にあります。例えば世俗法において仕事の待遇が良くなり、地位が上がり、名誉を得て、権勢を握り、収入が増え、人縁が良くなるなど、要するにますます順調で快適になり、家庭関係なども良くなっていくような場合。
これらは全て、自らが仏法学習と弘法活動で修めた福徳を使用しているのです。そうすると福徳は如来蔵銀行から現金化され、残高は少なくなり、仏法修証に用いる分が足りるかどうかは定かではありません。もし不足すれば修行は依然として向上せず、再び福徳を修めなければなりません。修めた福徳を再び世俗法に用いれば、修行に必要な時に依然として福徳が不足します。この循環の中で、いつ自身を修めきることができるでしょうか。
よって福徳を修める際には、これらの福徳の何割かを修道に用いるよう願を立て、極力世俗法に用いないようにすべきです。なぜなら採算が合わず、現金化して使い切れば無くなってしまうからです。お金を多く稼げば稼ぐほど地位が上がり、福徳を現金化すればするほど如来蔵の預金は減り、そうなれば何をもって道業を支え、修行成道を果たすのでしょうか。
収入が多いほど良い、権力や名声が大きいほど良いと考えてはなりません。弘法のためにお金を稼ぐ場合を除き、自らの如来蔵銀行の預金は減る一方で、修行を支えられなくなります。聡明で知恵ある者は常に如来蔵銀行に相当額の預金を保有し、現金化して世俗法に用いることはしません。世俗法は程々に過ごせれば十分で、衣食足りれば良いのです。修行に用いる福徳は必ず十分に、余裕ある量を確保しなければ、修行は順調かつ迅速に進めることができます。
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