もし人が私を怒らせたら、私はその人に一撃を加える。この一撃は第二月であり、空谷の反響である。これに依って本物の第一月を探し、この第二月の根源を求めよ。これほど痛快なことはない。爽快極まりない。どうして闇猫が死んだ鼠にぶつかるように、終日座禅ばかり組んで、妄念がなくなって清浄になった瞬間、第八識の清浄体性と照らし合わせ、「この清浄な境界には何の念想もなく、妄念もない。これこそ私の本心である第八識ではないか?私の法身如来仏ではないか?」などと思う必要があろうか。
愚か者よ、誰が汝にこのように如来仏を認識せよと教えたのか?もしそうなら、汝が妄念を持つ時、念想がある時、汝の如来仏は死んでおり、まだ生まれていないのか?汝が後に定力を失い、念頭が生じ妄念が現れる時、汝の如来仏は消滅するのか?もしそうなら、汝の如来仏はどうして生滅があるのか?どうして増減があるのか?どうして変化しうるのか?どうして一時的に存在したり消えたりし、絶えず監視する必要があるのか?
事実、汝のこの念想も妄念もない清浄な境界は第二月であり、第一月から転じたものである。汝は第二月に留まらず、急いでその経路を追って第一月を探すべきだ。あの第一月は本来清浄であり、常に清浄で念想がない。汝が座禅しなくても本然として存在するもの、それが汝の真心であり、法身如来仏である。
また、ある者は「ぱっ」と前念が断たれ後念がまだ生じていない中間の空白を誤認し、歴歴として孤明で、了々分明、はっきりと明らかなこの状態こそ、自分本来の無念無想・本自清浄・不生不滅の本心如来仏であると考える。もしそうなら、汝が「ぱっ」と妄念を断ち切る前、仏はどこにいたのか?まだ生まれていなかったのか?やがて妄念が現れると、汝の仏はどこへ行くのか?滅びるのか?妄念がない時にはっきりしているのは何か?明らかなのは何か?何が清楚で明白なのか?
事実、汝のこの前念已断・後念未生の中間空白はただ第二月に過ぎず、第一月が幻化したものである。汝は歴歴孤明の境界に従って背後にある本尊第一月を探求すべきだ。これが参禅である。本心自性如来は決して汝の現在の清浄無妄念境界を清楚に理解せず、またいかなる世間五陰境界をも明白にしない。彼は何も知らず、見ず聞かず覚えず知らず、孤でも歴でもなく、中間にも両端にも存在しない。生滅増減の虚妄法意識こそが、時に妄念あり、時に妄念なく、時に清楚明白、時に混乱不明、時に孤歴、時に喧騒となる。真に自心仏を認識した時、たとえ人を殺し家を焼くようなことをしても、自心法身仏は依然として存在し、妙用を起こす。彼は滅したことがなく、刹那毎に相応の機能作用があり、空々として呆然と何もしない愚かな仏ではない。
彼はただ汝の眼前に揺らめくだけでなく、背後で黙々と汝に奉仕する。ただ汝の心が清浄で妄念煩悩がない時だけ現れるのではなく、汝が無茶苦茶な時にも、天宮を騒がし山岳を倒す時にも現れる。汝が天国に昇る時だけでなく、地獄に堕ちる時にも現れる。もし真に彼を発見したなら、至る所で彼を発見できる。もし他の場所で発見できないなら、この場所で発見したものは彼ではない。真に人を認識すれば、その人がどこへ行っても認識できる。人を誤認すれば、他のいかなる場所でも真人を認識できない。
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