衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2020年06月20日    土曜日     第2開示 合計2413開示

第二月に従って第一月を覓むるはすなわち参禅である

もし誰かが私を怒らせたら、私はそいつに一棒をくらわせる。この一棒こそが第二の月であり、空谷のこだまなのだ。これに依って本真の第一の月を探し、この第二の月の根源を探し求める。なんと痛快なことか、痛快淋漓である。なぜ瞎猫が死ネズミにぶつかるようなまねをして、一日中そこに座って坐禅し、妄想がなくなるまで座り、一瞬清静になったかのように感じて、それから第八識の清浄な体性と照らし合わせて、このような清浄な境界には思いも妄想もない、これこそが私の本心第八識ではないか、私の法身如来仏ではないか、などと思う必要があろうか。

愚か者め、誰がお前にそんなふうに如来仏を認めろと教えたのか。もしそうなら、お前に妄想があるとき、思いがあるとき、お前の如来仏は死んでいるのか、まだ生まれていないのか。その後、お前の定力が消えて、念頭が生じ、妄想が現れたとき、お前の如来仏は消滅してしまうのか。もしそうなら、お前の如来仏はなぜ生滅するものなのか。なぜ増減するものなのか。なぜ変化しうるものなのか。なぜあるときはあり、あるときはなく、絶えず見張っていなければならないのか。

事実はこうだ。お前のこの念頭も妄想もない清静な境界は、第二の月にすぎず、第一の月から転じてきたものである。第二の月にとどまってはならず、急いでその道筋を追って第一の月を探し求めよ。その第一の月はもともと清浄であり、いついかなる時も清浄無念であり、坐禅しなくても本来存在している。それこそがお前の真心であり、法身如来仏なのだ。

また、パッとした瞬間、前念が断たれ後念がまだ生じていない中間の空白を誤って認める者もいる。歴歴孤明、了了分明、清清楚楚、明明白白であるこのものこそ、自分の無念無想で本来自清浄不生不滅の本心如来仏主だと考えるのだ。もしそうなら、パッと妄念を截断する前は、仏主はどこにいたのか。まだ生まれていなかったのか。しばらくして妄念が現れると、お前の仏主はまたどこへ行ったのか、滅したのか。妄念がないときに清清楚楚であるものは何か。明明白白であるものは何か。いったい何が清楚明白なのか。

事実はこうだ。お前のこの前念が断たれ後念がまだ生じていない中間の空白は、ただの第二の月であり、第一の月が幻化したものである。歴歴孤明の境界に沿って、その背後にある本尊たる第一の月を探し求めよ。これこそが参禅である。本心自性如来は、今のお前の清浄無妄念の境界を決して清楚明白に知ることはなく、いかなる世間の五陰境界をも決して清楚明白に知ることはない。神様は何も知らず、見も聞きも覚りも知ることもなく、孤でも歴でもなく、中間にもなく、両頭にもない。むしろ生滅増減の虚妄法である意識のほうが、あるときは妄念があり、あるときは妄念がなく、あるときは清楚明白で、あるときは糊涂で不明白、あるときは孤歴であり、あるときは宣鬧である。真に自心仏を認識したときは、何をしていようと、たとえ人を殺し火を放とうと、自心の法身仏は依然として存在し、依然として妙用を起こす。神様は滅したことが一度もなく、刹那ごとに常に相応の功能作用があり、空っぽでぼんやりと何もしない愚かな仏ではない。

神様はお前の眼前に揺れているだけでなく、お前の背後で黙ってお前に仕えてもいる。お前の心が清浄で妄想も煩悩もないときに現れるだけでなく、お前が無頼きっているときにも現れ、お前が天宮で大暴れして邱を傾け岳を倒すときにも現れる。神様はお前が天に昇るときに現れるだけでなく、地獄に堕ちるときにも現れる。もしお前が真に神様を発見したなら、あらゆるところで神様を発見できるようになる。もし他の場所で神様を発見できないなら、この場所で発見したものは神様ではない。真に一人の人間を認識すれば、その人がどこへ行っても認識できる。人を誤って認識してしまえば、他のいかなる場所でも、真人を認識することはできない。

——生如法師の開示
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