仏道を学んで悟りを開く過程は、極めて難しいとも言えれば、容易であるとも言えます。難しいと言われるのは、意根に固有の認識を転換させ、真理を受け入れさせるのが非常に困難だからです。容易と言われるのは、その手順自体は複雑ではなく、意識と意根の認識問題にのみ関わるからです。まず意識が学習を通じて、五陰身の中に常住する如来蔵が一切の法を生じさせることを知り、繰り返し修練を重ねることで意根にも如来蔵が真我であり真の主人であることを認識させます。しかし意根は必ずこの事実を疑い、自らが真の主人であり全てを支配していると考えます。
意根の疑いを除くためには、まず意根に五蘊十八界が全て我ならず、意根自身も生滅変異する実体ではないことを証得させねばなりません。これにより意根は依拠すべきものとして如来蔵の存在を認めるようになります。次の段階では意識と意根が共同で禅に参じ、如来蔵を参究します。もし意識のみが推論するならば、それは情思意解と呼ばれ、得られた結論は理解あるいは解悟に過ぎず、禅定の水に潤されない乾慧を得るに留まります。これでは解行が相応せず、解脱を得られません。意根と意識が共同参究するためには禅定が必要で、疑情と話頭で意根を繋ぎ、その妄念を断ち切り、日夜疑情と話頭に縁慮させることで、いつか必ず明心見性できるのです。
悟道の方法は意識から着手して意根に至り、意識の思惟内容を意根に理解させることにあります。意識が伝令役として情報を伝える際には巧妙な方便が必要で、細やかな智慧と周到な思惟をもって意根の注意を引き、その積極性を喚起し、退路を断つ必要があります。意識が情報を整理して意根に伝えた後は静かに待ち、意根の指示に従うべきです。これには優れた禅定が必要で、意根が妨げられることなく参究できる環境を整えることで、最も効率的な参究が可能となるのです。
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