衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
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日常開示

2020年04月12日    日曜日     第3 回の開示 合計2265回の開示

『楞厳経』第八巻抜粋解釈

楞厳経第八巻原文:さらに、阿難よ、この有頂の色際の中から、その間にまた二種の分かれ道がある。もし捨心において智慧を発明し、慧光が円通すれば、たちまち塵界を出で、阿羅漢となり菩薩乗に入る。このような類を回心の大阿羅漢と名づく。もし捨心において捨厭を成就し、身が礙りと覚り、礙りを銷して空に入れば、このような類を空処と名づく。諸礙既に銷え、礙り無く滅すること無し。その中に唯だ阿頼耶識を留め、末那の半分微細を全うする。このような類を識処と名づく。空色既に亡び、識心都て滅し、十方寂然として迥に往く所無し。このような類を無所有処と名づく。識性動かず、滅を窮め研ぎ、尽きざる中に尽性を発宣し、存するが如く存せず、尽きるも尽きず。このような類を非想非非想処と名づく。

釈:色界四禅天の上に四空天あり、三果人が四禅天において四果を証得する時、二つの分岐点がある。一つはこの阿羅漢が色界天において無余涅槃に入らず、回心して菩薩道を選び、菩薩乗を修学する場合で、無色界の空無辺処天には赴かない。もう一つはこの阿羅漢が自らの五陰身を厭い、色身を捨てて無色界の空無辺処天に入る場合である。

阿羅漢が空無辺処天においては、意識心中に既に色身の礙りを感じないが、意識も滅せず、識無辺処天に入る。定中に阿頼耶識と末那識、さらに意識が存在する。末那識にはなお微細な三界の無明が残るため、意識を捨てることができず涅槃に入れない。次の段階で意識を滅すれば無想定に入り、無想天に昇る。しかし意根にはなお微細な三界の無明が残り、未だ無余涅槃に入ることはできない。

無想天にはさらに分岐点として非想非非想天がある。非想非非想定においては阿頼耶識と末那識、極めて微細な意識が存在し、意識は半ば滅せず半ば存し、その機能作用は大幅に減退し、心所法より受想が滅する。

滅尽定に入って初めて俱解脱の大阿羅漢となり、滅尽定中に直接涅槃に入る。もし慧解脱の阿羅漢であれば、命終時に無余涅槃に入る。ここに説かれるのは定解脱の阿羅漢が禅定を修し、段階を経て俱解脱の阿羅漢となり、無余涅槃に入って三界を解脱する過程である。

何故定解脱の阿羅漢の第八識を阿頼耶識と呼び、異熟識と称さないのか。定解脱の阿羅漢が滅尽定に入る前、無余涅槃に入る以前において、末那識にはなお微細な三界の無明が断尽されておらず、分段生死が未了で、種子はなお変異を続けるため、異熟識と呼ぶことができず、依然として阿頼耶識であるからである。

——生如法師の開示
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