衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2020年04月06日    月曜日     第1開示 合計2248開示

学仏は研究をやることではない

仏教を学ぶということは、知識を学んで研究することではなく、参究する能力を持ち、求証しに行かなければならず、単に理解を求めるだけではいけません。もし禅定が不足していて、見道のための様々な因縁が具足していないのに、頭が良さゆえに万一如来蔵をなぎ出してしまったら、なぎ出した結果がほぼ真実に近い場合、その後はもう功夫を積んで参禅することができなくなり、しかも自分は悟ったと思い込んでしまうかもしれず、それは大変なことになってしまいます。因縁が具足していないときには、如来蔵については先ず覆い隠して蓋をしておき、後の参禅による証悟に備えるべきです。

皆さんに研究をしてもらいたくないのは、法がすでにかなり明らかになっているからです。頭の良い人がさらに研究を重ねて、ほぼ正しい結果を研究し出してしまうと、本当に厄介なことになります。やはり菩薩としての条件が具足したときに、禅定の中で参究すべきです。

世間の学校で成績優秀だった人のうち、社会に出てから国家の柱となる人材になった人は何人いるでしょうか。知識は人を良く生きさせることはできますが、創造力があるとは限りません。仏教を学んで実証を得たいなら、世間の学問とは区別すべきです。さもなければ、仏教を学ぶことは知識を学ぶことになってしまい、知識は人を解脱させることはできず、実証のみが人を解脱させることができるのです。

仏陀の十大弟子の一人である周利槃陀伽は四果の大阿羅漢でしたが、証果する前は人よりも非常に愚かで、証果した後も仏法を説くことはできませんでした。それでも彼は倶解脱の大阿羅漢なのです。私たちはそこまで愚かではないのですから、知識の理解と学習については、ほどほどにしておけばよいのです。

——生如法師の開示
前へ前へ

『楞厳経』第九巻原文(二)

次へ 次へ

性相一如とは何か

ページトップへ戻る