問:如来蔵と意根の法は、いったいどちらがより重要なのでしょうか?もし魔王波旬が法を破壊しようとするなら、彼はどの法の弘通を最も阻みたいと思うでしょうか?
答:如来蔵と意根の法はどちらも重要です。どうしてもどちらがより重要かを比較するなら、それは如来蔵の法の方がより重要です。なぜなら、如来蔵がなければ一切の法は存在せず、如来蔵を証得しなければ、どんな法を修めても無駄になり、如来蔵を証得しなければ、その後さまざまな観行も生じず、意根のさまざまな機能体性を観察する妙観察智も得られず、意根の平等性智も生じないからです。
もし波旬が仏法を破壊し阻害しようとするなら、彼は必ずまず如来蔵の法を破壊し、その後で意根の法を阻害するでしょう。波旬の福徳は非常に大きく、仏が在世して法を弘められた時、彼は仏のそばに付き従い、多くの法会に参加しました。ほとんどの場合、法を破壊する目的で参加していましたが、時に仏力と仏法の感化のもと、菩薩の懲らしめを受けて、やむなく法会で注意深く法を聞き、さらに仏法を護持することもありました。彼は常に仏法が非常に優れ重要であり、衆生に清凉を得させ解脱させることができることを知っていました。しかし、彼は極めて強い眷属欲のため、自らが支配する眷属が減るのではなく増えることを望み、したがって衆生が仏法を学び善くすることを望まず、衆生が心に清凉を得て解脱し、彼の支配から離れることを望まなかったのです。
それゆえ、波旬は世尊が重要な大乗経典を説こうとしていることを知ると、あらゆる手段を尽くして妨害しようと企てました。仏は波旬の詭計をよくご存知でしたが、決して彼を暴かれることはなく、常に護法菩薩が波旬を懲らしめられました。こうして波旬は仏の法会で多くの仏法、主に大乗法を聞くことになり、彼も少なからぬ大乗法を理解しました。後世、この善根福徳によって真の菩薩となり、将来は成仏できるのです。
しかし、彼が真の菩薩となる前、地獄に堕ちて悪報を受ける前は、まだ魔性と強い眷属欲が残っており、必ず自ら聞いた仏法を利用して、衆生に似非大乗法や如来蔵の法を説くでしょう。それは仏法に比較的近いものです。彼は神通力を持つため、如来蔵の密意を知るのは容易であり、如来蔵を説く際には、密意を衆生に教えることを厭いません。彼は衆生が単に結果だけを知ることを恐れず、結果を知るだけでは役に立たず、その中間の修行過程こそが最も重要だと考えています。波旬がこのように行動すれば、巧みに目的を達成します。第一に衆生に自分を崇拝させ、それによって衆生を抱き込むことができ、第二に衆生が真に修行することを許さず、真の解脱を得られなくするのです。衆生が容易に密意を知れば、もはや精進して修行することができず、極めて重い慢心を生じて悪業を造ることになります。こうして衆生はどうあっても波旬の支配から逃れられず、波旬は目的を達成するのです。したがって波旬は、衆生が皆如来蔵の法を学ぶことも恐れません。ただ学び方が如法でなく、さらに容易に如来蔵の密意を知ってしまえば、かえって解脱がより困難になり、これらの衆生は依然として波旬の眷属に属し、波旬の支配下にあるからです。
それでは、我々は波旬が必ず実修実証を最も恐れることを理解しました。そして法を学び実修実証することは、すべて禅定と意根に関わっており、禅定を具足すれば、意根に熏修することができ、容易に仏法を証得し、そうなれば解脱は遠くありません。波旬はこれに対して全く為す術がなく、彼は禅定と意根の実証の法に対して不当に妨害し、あらゆる手段で阻害し、表向きは擁護し、裏では破壊するでしょう。衆生は彼の手口を見抜けず、かえって彼がとても法を護り、修行を積んだ真の菩薩だと思い込むのです。波旬は非常に狡猾で、表向きは大いに仏法を支持し、自ら法を説き弘めることさえありますが、決して衆生に真に仏法を証得させません。彼が密かに行うこれらの細工は、衆生の智慧では絶対に見破れず、善根福徳の厚い衆生だけが諸仏菩薩の加護を得て、その惑わされから逃れ、実証を得ることができるのです。したがって善根福徳は非常に重要なのです。
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