衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年01月28日    火曜日     第1 回の開示 合計2120回の開示

五戒における盗戒の範囲

盗とは、与えられざるものを取ること、すなわち自己の所有に属さぬものを占有しようとする行為を指します。自己に帰属せざる一切の物を取得することは全て盗に含まれます。その範囲は如何なるものに及ぶのでしょうか。

例えばある団体において甲が第一の優れた者であるのに、乙が自らを第一と称する場合を考えましょう。乙が第一の名誉を自己のものと見做せば、甲の名誉は乙によって占有されます。この乙の行為は甲の名誉を盗んだと言えるでしょうか。

明らかに甲が成した仕事を乙が自らの功績と主張する時、乙は甲の業績を盗んだことになるのでしょうか。団体において甲が有する権限を、乙が無自覚に行使した場合、乙は甲の権力を盗んだことになるのでしょうか。この種の盗は妄語とも言えます。一つの身口意の行為が二つの戒律に触れ、同時に二つの罪を犯すのです。

そもそも五戒は身と口にのみ関わり、意には及びません。意が如何なる状態にあろうとも、身口が犯さなければ戒を破ったとは見做されません。故に五戒は心を戒めず、ただ身口を戒める小乗戒に属し、身を正し口を慎むことができれば、人の修養は整い来世も人として生まれ変わることができます。我見を断じて証果を得ることも可能ですが、悟りを開くには菩薩戒を受けて守る必要があります。

五戒を厳守すれば徳を備え人格を修養します。五戒を守れなければ人格は不完全で修養不足、人としての徳を具えません。凡夫たる者の人格修養が不十分であれば、我見を断ち聖人に超越することは不可能です。

五つの戒すら守れず受ける勇気もない者が、如何にして出家者の数百条に及ぶ戒律を守ることができるでしょうか。多くの在家居士が出家者を誹謗するものの、自らはどうでしょうか。世俗を捨て世俗に背を向ける出家者の心行、数百条の戒律に縛られる心行との隔たりは如何ほどでしょうか。

五戒は五条のみと簡素に見えますが、実は容易ではありません。完全に守りきる者は極めて稀です。盗戒と妄語戒は特に遵守困難で、大多数がその内実と範囲を明確に理解していません。

五戒を守るとは即ち人としての道です。人たる道さえ尽くせない者が、如何にして来世の三塗を論じられましょう。多くの者が五戒も受けずに証果や悟りを暗示します。小乗五戒の身口すら守れぬ者が、如何にして大乗菩薩の心意戒を守れるでしょうか。意を制することは最も困難で、起動する念いが悪業を造らぬよう心掛けるのは至難の業です。瑜伽師地論の菩薩戒は更に難しく、煩悩を断たぬ者が守ることは叶いません。これは煩悩を断じた地上菩薩の守るもので、起動する念いのみを管し、身口の行為は衆生を利する限りにおいて行えばよく、これを怠れば菩薩戒を犯します。このような戒は地前の菩薩ですら達成困難で、まして凡夫たる衆生には及びもありません。しかしながら、この戒を学び受ける者は少なくなく、斯かる菩薩戒体が何処より得られるかを知らないのです。

身口は六識の造作であり、意は意根の心行です。意根を制すれば身口は必ず犯しません。逆に意根の念いが正しからずとも、意識で強く抑えて清浄を装えば、身口を犯さず五戒を破ることもありません。意根を制し伏せることは極めて難しく、意根を修め煩悩を断じて自覚的に無為となることは更に困難です。

煩悩を断たねば意業は必ず犯されます。故に煩悩を断ずるには意根の煩悩を断じ、自覚的に無為となる必要があります。意識の煩悩を断ずるのみでは、煩悩を抑圧したに過ぎず、意識が油断すれば意根が突然煩悩を現行させ、河水の堤が決壊する如く氾濫するのです。

——生如法師の開示
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