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日常法話

2019年12月21日    土曜日     第2開示 合計2091開示

意根の遍計所執性 (parikalpita-svabhāva)

大迦葉は頭陀行を行じ、樹の下に座して、一つの樹の下で三日を超えて坐禅することは決してなく、三日目には必ず別の樹に替えました。それは樹に対して執着が生じ、それによって生死の繋縛があることを恐れたからです。倶解脱の大阿羅漢は心がすでに解脱しており、いつどこでも無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) に入ることができるのに、なぜそれほどまでに自分の心を見守るのでしょうか?

見守ることのできる心は意識であり、覚悟性が強く、理智性が強いのです。見守られる心は意根であり、覚悟性と理智性が劣り、遍計所執性 (parikalpita-svabhāva) を有し、一切の法に対して容易に執着を生じます。凡夫の意根は、出会った法なら何でも執着すると言えます。意根はなぜこれほど執着しやすいのでしょうか?

意根は無始劫以前から無明が深重で、法の道理を知らず、法の実質と本質を見ず、法の表相のみを知り、仮相を究竟として執取 (upādāna) します。また無明愚痴のために、自分が愚痴であることを知らず、自分の見解を執取して捨てようとしないので、意根は度化するのが非常に難しく、その認知や習気・習慣を転倒させることが容易ではありません。

意根の習気と習慣について言えば、意根は自分の心に相応する事物に触れると、三回を超えると容易に習慣が形成されます。いわゆる習慣とは、意根の慣性の力であり、前に思ったこと・したこと・考えたことに順ずることを望み、好み、柔軟に変通することがありません。意根の習慣の中には、意根が好むものではないものもあり、接触が多くなると、機械化された思想と心行が形成されます。

なぜ意根には機械化された慣性があるのでしょうか? 意根は愚痴で、思惟が下手であり、接触して成熟し時間の長い法に対しては、自動的に受け入れてしまい、その後執取してその通りに行うため、習慣と自然性が形成されるのです。意識や六識にとっては、無自覚に何かを言い、何かをし、何かを考えてしまい、制御できません。意根は執拗であるため、どうして容易に制御できましょうか? そのうえ意識も覚悟しておらず、制御しようという考えや念頭すら持っていないのです。

世の中にはもともと道はなく、歩く人が多くなれば道となるものです。意根にはもともと習慣がありませんが、接触が多く、常にすれば習慣となるのです。意根がいったん習慣を身につけると、容易に除去したり改めたりすることはなく、たとえ無意味なことであっても、意根がいったん習慣になれば、以後はその通りに行って誤りません。神様は、この事に意味があるかどうか、行う価値があるかどうか、どれほどの代価を払う価値があるかどうかを思惟することはなく、まったく顧みません。この点から見れば、意根は愚痴であり、智慧が低劣なのです。

意根の愚痴性と習慣が形成されやすいことから見ると、意根は遍計所執性 (parikalpita-svabhāva) を有しています。もし智慧の性質であれば、遍計所執性はなく、智慧があれば執着せず、まして遍計所執などしません。意根の愚痴性のために、善法に対してはかえって習慣が形成されにくく、執着も生じにくいのです。もちろん善法への執着も生死の繋縛であり、解脱できませんが、修行には次第があり、善をもって悪を治するのは修行の初步であり、悪法を除去した後は善法も留めず、心空にして道に相応し、道力具足となるのです。

無始劫以前、意根の置かれた環境は悪法が多く、善法が少ないか、あるいは善法がなかったため、意根は悪法と相応し、善法と相応せず、悪法に慣れて善法に慣れていません。善法で熏染するのは比較的困難ですが、苦海の輪回から脱しようとするなら、どれほど困難でも善法で熏染し続けなければなりません。堅持こそが勝利なのです。

——生如法師の開示
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