原文:如何にして漏を護断することはできるのでしょうか。比丘よ。眼が色を見て眼根を護する者は、正思惟による不净観を用います。眼根を護しない者は、不正思惟による净観を用います。もし護しないならば、煩惱憂戚が生じます。護すれば、煩惱憂戚は生じません。如是耳鼻舌身意が法を知る場合、意根を護する者は、正思惟による不净観を用います。意根を護しない者は、不正思惟による净観を用います。もし護しないならば、煩惱憂戚が生じます。護すれば、煩惱憂戚は生じません。これが漏を護断する方法と言われます。
释:如何にして三界の漏を离断することができるのでしょうか。比丘たちよ。眼が色を見て眼根を善護する者は、正思惟による不净観を用い、护断となります。眼根を護しない者は、不正思惟により色身清净を見る、即ち不護となります。もし眼根を護しないならば、煩惱憂戚が生じます。護すれば、煩惱憂戚は生じません。如是耳鼻舌身意根を護する者は、声香味触法に正思惟を用い、正確に声香味触法を認知し、三界の漏を护断します。耳鼻舌身意根を善護する者は、正思惟により声香味触法の不净を観察します。耳鼻舌身意根を護しない者は、声香味触法に不正思惟を用い、六塵の法清净を見ます。根を護しないならば、煩惱憂戚が生じます。護すれば、煩惱憂戚は生じません。これが三界の漏を护断する道理と言われます。
原文:如何にして漏を离断することはできるのでしょうか。比丘よ。悪い象を見れば、遠離すべきです。悪い馬、悪い牛、悪い狗、毒蛇、険惡の道路、溝坑、暗蔽の厕所、江河、深泉、山岩、悪い知識、悪い朋友、悪い異道者、悪い闾里、悪い居止を見れば、遠離すべきです。清净の梵行者と同处する場合、人本来無疑者にも疑を生じさせるので、比丘は遠離すべきです。悪い知識、悪い朋友、悪い異道者、悪い闾里、悪い居止、清净梵行者と同处する場合、人無疑者にも疑を生じさせるので、全て遠離すべきです。もし遠離ないならば、煩惱憂戚が生じます。遠離すれば、煩惱憂戚は生じません。これが漏を离断する方法と言われます。
释:如何にして三界の漏を离断することができるのでしょうか。比丘たちよ。悪い象を見る時は遠離すべきです。悪い馬、悪い牛、悪い狗、毒蛇、険惡の道路、溝坑、暗蔽の厕所、江河、深泉、山岩、悪い知識、悪い朋友、悪い異道者、悪い街巷、悪い居止を見る時は遠離すべきです。清净の修道者と同处する場合、人本来無疑者にも疑を生じさせるので、遠離すべきです。もし厭離しないならば、煩惱憂戚が生じます。遠離すれば、煩惱憂戚は生じません。これが三界の漏を离断する意味と言われます。
原文:如何にして漏を用断することはできるのでしょうか。比丘よ。衣服を用いる場合は、利のために故ではなく、貢高のために故ではなく、严饰のために故ではなく、蚊虻と风雨寒热のために故であり、惭愧のために故です。饮食を用いる場合は、利のために故ではなく、貢高のために故ではなく、肥悦のために故ではなく、身を久住させるために故、煩惱憂戚を除けるために故、梵行を行うために故、故病を断し新病を不生させるために故、久住安隐無病のために故です。居止房舍、床褥卧具を用いる場合は、利のために故ではなく、貢高のために故ではなく、严饰のために故ではなく、疲惓を得止息させるために故、静坐を得るために故です。汤药を用いる場合は、利のために故ではなく、貢高のために故ではなく、肥悦のために故ではなく、病恼を除けるために故、命根を摄御するために故、安隐無病のために故です。もし用いないならば、煩惱憂戚が生じます。用いるならば、煩惱憂戚は生じません。これが漏を用断する方法と言われます。
释:如何にして三界の漏を用上断することができるのでしょうか。比丘たちよ。衣服が必要な場合は、利益のために故ではなく、貢高我慢心のために故ではなく、庄严修饰のために故ではなく、蚊虻と风雨寒热を遮蔽するために故であり、惭愧のために故で衣服を用います。饮食が必要な場合は、利益のために故ではなく、貢高我慢のために故ではなく、健康愉悦のために故ではなく、色身を久住存留させるために故、煩惱憂戚を除けるために故、清净行を修行するために故、老病を消除し新病を不生させるために故、久住安隐無病のために故で饮食を用います。居止房舍、床褥卧具が必要な場合は、利益のために故ではなく、貢高我慢のために故ではなく、庄严和装饰のために故ではなく、疲惓時に良い休息を得るために故、静坐修行のために故で用います。汤药が必要な場合は、利益のために故ではなく、貢高我慢のために故ではなく、身体健康和快乐のために故ではなく、病恼を除けるために故、命根を摄受和保护するために故、色身安隐無病苦のために故で汤药を用います。もしこれらの物品を用いないならば、煩惱憂戚が生じます。用いるならば、煩惱憂戚は生じません。これが三界の漏を用断する道理と言われます。
1
+1