修行者がまだ悟りを開いていない時は、割られていない卵のようなものである。この卵をいつどのように割るかは、実に大きな学問であり重要な課題である。時機を誤って割れば、腐った卵となり、食用にもならず、ましてや雛が孵ることはない。外力のみに頼って卵を割ると、往々にして無用の卵を生むだけである。
故に修行は主に自己に依るべきであり、外力は温もりを与える程度で良い。内側で自ら変化し、自己を改めねばならない。無用の材となるを嫌うなら、他者の引き立てを過度に期待すべからず。学び始めて間もない者が、卵がまだ生々しい状態で師に急ぎ悟りを開かせようと求める。そのような悟りに何の意味があろうか。何を悟ろうと無駄であり、結局は無用の材となる。生卵が少し温まっただけで殻を破ろうと急げば、せいぜい料理に使われる程度で、大器とは成り得ない。
殻の中の生命が成熟に近づく時、様々な兆候が現れる。最終的に雛は自ら殻をつつき、どうしても破れない時、嘴がまさに破れんとする瞬間に外力が軽く加われば、生命は見事に誕生し、強健で生命力に満ちた存在となる。
雛の誕生は、その大部分が自己の努力によるものであり、一部は外部の温度環境と母鳥の慈しみにかかっている。
修行もまた同様で、その大部分は自己の精進努力に依り、わずかに師の教導と助力による。
かつて祖師が弟子を接引した際には、啐啄同時の妙を極め、時機を掌握していた。何故なら真の祖師・真の禅師は真実の道を持ち、道力のみならず道眼を具え、微細を察知して機根に応じた教えを施したからである。当時の学人は幸運であり、非常に恵まれていた。三十七道品を修めず六波羅蜜を具えなければ、禅師は決して手を下さず、弟子の法身慧命を最優先し、軽率な行いをせず、責任感が極めて強かった。
もし乱暴に接引する者がいれば、数を揃える嫌疑があることを自覚すべきで、その者に道のないことを知り、避けるのが最も安全である。卵を守護し、容易に割らせてはならない。誰が進んで割ろうとも、一様に拒絶せよ。
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