衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年10月11日    金曜日     第1 回の開示 合計1963回の開示

説理と証理の区別

達磨大師が梁の武帝と出会った時、なぜ彼を度脱しようとされなかったのか。武帝が数言を語るのを聞き、振り返りもせずに立ち去り、武帝が兵を派遣して追いかけさせても決して振り向かれなかった。河南嵩山の石洞で九年間壁に向かって坐禅を続け、人を度脱することもなく、ましてや梁の武帝を導くことなどされなかった。梁の武帝とはいかなる人物か、今ならネットで検索できる。寺院を建立し、出家者を度脱し、三宝を供養し、自ら金剛経を講じ、傅大士が堂上で説法する際には身を屈めて背中を階段とし傅大士を堂上に導いた。これほどの人物は福徳深く、善根浅からぬはずなのに、なぜ達磨大師は彼を接引されなかったのか。梁の武帝が現代に生きていれば、とっくに十八、九度は悟りを開いていたであろう。そのような根性は今の世でも稀なのに、達磨大師は全く目も留めず、ましてや言葉を交わすことさえ拒まれた。いったいなぜか。大師が九年間面壁する間にどれほどの人を救えたかと思うが、一人も顧みられなかった。いったいなぜか。

梁の武帝の福徳は確かに大きく、三宝を特に護持し、善根が深くなかったとは言えない。しかし結局のところ、明心見性し言葉の下に宗旨を識る境地には至らなかった。故に達磨大師は彼を向上の一路に導く手間をかけられず、宗門の器ではないと見做された。禅門が度脱するのは生死を解脱せんとし、かつ因縁も具足した者である。因縁不具足の者を強いて悟入に導けば、仏教と衆生に害をなす。

真に道を得た祖師方は、理を説いて行じられぬ説理者を最も嫌う。求めるのは真に理を証得できる道器たる弟子である。故に達磨は因縁成熟の者を見出せず、九年間壁に向かい因縁成熟の弟子が来るのを待たれた。梁の武帝は当時金剛経を数座講じ、座主を務められたが、結局は説理者に過ぎず、理を証得するには至らなかった。理を証せずして理を説けば、その説くところは水増しが多く実義を欠く。達磨大師が如何なる心を用いられようとも無駄であった。梁の武帝は畢竟、道器ではなかったからである。

かつて徳山禅師が未悟の頃、金剛経を幾座も講じ「周金剛」と称され、両肩に青龍疏鈔を担い南方へ魔を破りに向かった。しかし龍潭禅師に度化され開悟した後、自ら多年の心血を注いだ二担の疏鈔を火中に投じ「窮諸玄弁、若一毫置於太虚。竭世枢機、似一滴投於巨壑」と呟かれた。かつて説いた理、弁じた論は虚空に投じた一本の毛髪の如く重みなく、傾けた智慧才能は巨壑に落とした一滴の如く取るに足らぬ。真に悟らぬ内は、幾冊の書も皆がくず同然である。

説理と証理の違いは何か。説理者は意識を用い、証理者は意根を用いる。達磨大師の血脈論に曰く「若し性を見ずんば、十二部経教を説くも尽く魔説なり。是れ魔家の眷属、仏家の弟子に非ず。皂白を弁ぜずんば、何を憑りて生死を免れん」。十二部仏経を説くとも性を見ずんば(開悟せずんば)、即ち魔説と同じである。

説理多く証理少ない現象は広く見られ、特に今の末法の世では至る所に説理者が満ち、証理者はほとんど見当たらない。空を覆い地を尽くす説理者たちは、まことに人心を塞がせる。彼ら説理者を「解悟」と評するのは既に数段階過大評価であり、しかも「解悟」の名称にさえ満足せぬ。解悟の者には真実の修行過程があるが、最後の実証次元には至らず、最終結果を実証せず、推論と想像に留まる。禅定はあるが不十分、智慧はあるが水増し多し。三十七道品も修するが円満せず、菩薩六度も修するが未完成。なぜ現代では解悟の条件さえ整わぬのに、証悟の者が多く現れるのか。答えは各自が思索せよ。

——生如法師の開示
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