衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年09月22日    日曜日     第2 回の開示 合計1927回の開示

念仏三昧は意根によって成就される

真の念仏三昧とは、意識が十分に染まり意根を動かして念仏し、意根が成就した念々が全て仏となる三昧の境地である。これは本心の仏を証得した定慧円融の境地であり、定も慧も備わっている。修習の全過程において、意識が意根を導き、仏菩薩の形象を念じることから真の仏菩薩の真如を念じ、最後に意根が真如三昧を成就する。意識は念ぜずとも意根が念じ、深甚な禅定が現れ、その後智慧が生じて真如自性を証得するのである。

その中の禅定は動静を結合し、両面に偏らない。最初は静座中に修める方が容易で、心が静まるのが早く、静中の修持に工夫が生じれば、活動中も心が安定しやすく、専心一意となりやすい。これは静が動を養うからである。動静結合の中で一心に念仏し、定力の修持が出来た後、般若の智慧も幾分具われば、念仏するのは誰かを参究できる。ここで転換が必要となり、禅定に智慧の観照を加える。これを観行ともいう。心の念いが仏念から疑念に転換し、深く疑い、他の念いが無くなる。ある日、疑情が開け、念仏するのは誰かを参究し出す。

多くの人はこのような苦労を厭い実践できないため、一部の者は近道を選び、小賢しく心中で分析を始め、情思意解に至る。結局「念仏するのはあれでは?」と推量する。如何に推量しようとも、そのものは至る所に存在し、一切法に存在している。仏は既に明らかに説かれているが、貴方が「念仏するのはこれだ」と言う時、実際には念仏は八識の和合作用であり、真妄共存している。どうして即ちあれと言えようか。ある者は推理し「行住坐臥の中にそれがある、私は参究し悟った」と言う。

しかし行住坐臥はどの識を離れて成り立つのか。八識の和合作用を第八識単独の作用と見做すのは明らかな凡夫の知見であり、禅宗の明心証悟ではない。昨今の所謂開悟は、殆どの者がこのような悟り方で、ほぼ百パーセントがこのような誤解である。これは誤解の誤であり、自らを誤るに過ぎない。自らを誤った後は、煩悩はますます熾盛となり、我慢が顕著になり、貪瞋痴の煩悩が抑制なく現行する。二つの我が出現した結果、必然的にこうなる。真に悟った者は我見を断じ、頭を垂れ、身心軽安となり、煩悩が軽減し、定慧が増長し、心は空無為となる。

故に真の悟りを得んとし、自らに責任を負うならば、真の工夫を凝らし、真参実究すべきである。小利口を弄し、目立ちたがるべきではない。

——生如法師の開示
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仏法の修証における肝要な部分とは、戒・定・慧の三つの無漏学のことである。

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