生体から摘出された直後の内臓は、いずれも鮮烈な生命力を保ち、神経細胞が活動し、生命徴候が明らかである。なぜ内臓が体外にあっても鮮やかな生命を維持できるのか。それは意根(マナス)が執取を続ける限り、如来蔵(タタガタガルバ)が種子(ビージャ)を出力して内臓器官の生存を維持するからである。
人間の臨終時の観察によれば、各人の意根が身体に執着する性質は、執着が強い人ほど死の過程が遅く苦受(ドゥフカ・ヴェーダナー)が多く重く、逆に執着が微弱な人ほど死は迅速に訪れ苦受も少なく軽微である。ただし地獄への転生を遂げる衆生はこの限りではない。身体への執着が甚だしい者は煩悩(クレーシャ)の重い者であり、このような者は善業(クシャラ・カルマ)が微弱で、往生時に吉兆(瑞相)が現れず転生先が定まらないため、身体への執着が強まり、執着が強まるほど苦しみが増す。これは悪循環(ドゥシュタ・チクラ)であり、修行なき凡夫はこの輪廻から脱出できない。善業が多く強大な者は往生時に吉兆や善き前兆が現れ、身体への執着が薄いため死は迅速に訪れる。
故に平常より自己を訓練し、人・事・物への執着を極力減らせば、臨終時の苦受は稀薄となり、日常の生活においても苦受は極めて少なくなる。それゆえ執着が少なければ少ないほど解脱(モークシャ)に近づき、生は軽やかになる。いかなる対象への執着も重荷と負担であり、執着そのものが無明(アヴィディヤー)の現れである。智慧(プラジュニャー)ある者はこれを明らかに観察し、放下(ほうげ)することができ、人・事・物への執着によって自らに負担を増すような愚を犯さない。
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