真如には二つの意味があります。一つは真心の体、すなわち第八識である阿頼耶識を指し、もう一つは真心の性質、すなわち第八識阿頼耶識の真実性と万法に対する如如不動の性質を指します。いずれの意味における真如も無為なるものです。ただし真如が心体そのものを指す場合、それは不生不滅のものです。真如が真心の性質を指す場合、それは不実の法となります。なぜなら性質は本体があって初めて存在し得るものであり、本体こそが真実であるからです。性質は本体に対する説明と表現であり、当然ながら真実の法ではなく、自在の法でもありません。例えば衣服という本体は実在するものであり、衣服を形容する「美しい」「上品」「体に合う」「華やか」などの言葉は、衣服という本体があって初めて存在し得るもので、実体があるわけではありません。触れることも、捉えることも、着ることもできず、ただ鑑賞し感じるだけです。これらの形容詞が表現するものは自在ではなく、実在するものでもなく、本体でもありません。
真如もこれと同じく、第八識の本体の特徴を形容するものであり、「美しい」「上品」「華やか」といった形容詞と同じ性質のもので、本体に取って代わることはできません。自在の法は第八識の本体のみであり、不生不滅の法も第八識の本体のみです。しかし第八識の性質は仮有のもので、人為的に名付けられたものであり、実有ではなく、不生不滅の真実の法ではありません。
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