衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年10月26日    金曜日     第2開示 合計956開示

五蘊無我を理解することは我見を断つことではありません

私たちの中には、自分自身が虚妄であり、偽りの殻に過ぎないことを心で理解している人もいます。これは我見を断つことになるのでしょうか。無我を理解し、自分が虚妄であることを知るには、意識心による理解と末那識(意根)による理解があります。意識による理解には、真の理解と偽の理解があり、真剣な観行と思惟を伴わない理解は真の理解とは言えません。また、意識心だけの理解は非常に表面的で、往々にして大した効果を発揮せず、心の奥底にある末那識は依然として五蘊(五陰)を自我と認めたままです。そのため、実際の問題を解決することはできず、ましてや解脱を得て輪廻から脱することはできません。末那識は五蘊の全ての身口意の行い、すなわち意識心の造作をも支配し決定するからです。末那識に生死の結び目(結縛)がある限り、それは五蘊と六識を引きずって生死輪廻を続けさせるのです。

真の我見断ちとは、末那識が五蘊が確かに虚妄で無常であることを認め確認し、末那識が五蘊無我の理を明らかにすることです。末那識に認めさせ確認させるためには、意識心が深く細やかで包括的な観行を行い、その観行を通じて思惟の過程と結果を末那識に伝達しなければなりません。そうして初めて末那識は理解し、自ら思量して五蘊の自我の虚妄性を確認できるのです。意識は五蘊の一つ一つが虚妄であること、十八界の一つ一つが虚妄であることを思惟観行し、特に意識心の虚妄性については徹底的に思惟しなければなりません。そうして初めて末那識は五蘊が確かに非我であり、全ては虚妄であることを認め確認し、心の奥底の考え方に相当程度の転換が生じます。こうしてこそ我見を断ったと言えるのです。

——生如法師の開示
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見惑を断つことと思惑を断つこと

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意識の解は意根の証ではありません

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