衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年08月10日    土曜日     第4開示 合計1803開示

極楽浄土への往生は我見を断つよりも難しいことです

普段の心が制御されず、貪欲の念が絶えず、怒りの念が絶えない状態で、臨終の際に一切を捨て去り、少しも染まらず、何一つ持たず、清らかで無執着のまま極楽浄土に往生することが、果たして可能でしょうか。

率直にお伝えします:極楽浄土への往生は、我見を断つことよりも難しいのです。臨終の一念に娑婆への未練が生じ、一念に執着し、一念に捨てきれず、一念に耐えられず、一念に怒りを抱けば、この一生の修行は単に善根を植えるだけに終わり、極楽往生は望むべくもなく、再び娑婆世界で生死を繰り返すことになります。それも人間として転生し続けることさえ困難です。非想非非想天の天人たちの心は清浄ではありませんか? それでも臨終に悪業の因縁が熟せば、やはり地獄に堕ちるのです。ましてや欲界の人間界は悪縁がこれほど多いのです。臨終は普段の主観的な考えで決まるものではなく、業縁・業力に支配されることがほとんどです。往生の時を予知できた人でさえ娑婆に留まるのは、やはり一念が衆生のため、法を示すためであり、自己のためではないからです。ましてや他の状況では、怨親債主(怨みや恩のある霊的存在)が次々と様々な方法で絡み合い、ほどけず、整理つかず、善縁も悪縁も現れる中で、誰が抜け出せるというのでしょうか。

極楽往生が容易でないと言うと、不服に思う人もいます。今の人々がどのように念仏を唱え、どのような心で念仏し、心にどのような願力を持ち、どんな目的で極楽を目指しているのかを見れば、現代の念仏者が命終に極楽往生を果たせるかどうかがおわかりになるでしょう。『浄土聖賢録』を開き、古人がどのように念仏したかを見比べてみれば、現代の念仏者に往生の可能性があるかどうかがわかります。極楽を願う人の根機が劣っているなどと言ってはいけません。禅を参じて明心見性を目指す人たちでさえ、いったいどんな根機なのですか。五戒を守ることさえあれほど困難で、精進料理を食べる環境さえ整わないのなら、他のことは論じるまでもありません。

すべて阿弥陀仏の御迎えに頼るなら、事はもっと簡単になるのではないか、一仏で全ての衆生を救い尽くせ、十方諸仏は不要だ、とお考えですか? そんな都合の良いことがあるでしょうか。一声の念仏で極楽に至り、そのまま成仏を待つ。命終には片手で極楽の阿弥陀仏にすがり、もう片方の手で娑婆の怨親債主を引きずりながら、そうして仏になるのでしょうか。

——生如法師の開示
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