神とは、心識のことである。一つは眼識を指し、二つは意識を指し、三つは意根を指す。第八識は養う必要がなく、エネルギーを消耗せず、永遠に疲れない。
意根は疲れることがあるだろうか。意根は無始劫以来、第八識と同様に一度も休息したことがない。常に喜んで労苦を引き受けるわけではないが、一切の法に執着し、心配しないことはない。いつになれば心配することをやめるのだろうか。
意根にも飽き煩わしさや疲労がある。一貫して最初から最後まで持続することはできない。したがって意根も休息を必要とし、比較的楽しく愉快な事柄に注意力を移す。煩悩に関わる事柄には縁取らず、縁取り過ぎて負担になれば、一時的に放下することを知る。
最も養う必要があるのは意識である。意識が活動すると、特に脳細胞を中心に栄養物質を消耗する。物質的エネルギーが不足すると、意識は疲労を感じる。思考が多くなると、意識の思考回路が追いつかなくなり、その時は休息を必要とし、了別・分別・弁別・思慮を停止させる。
眼識は養う必要があるか。目で物を見る時間が長くなると、眼痛・視力低下・視界不良・頭重感などを生じる。しかしこれは眼識の問題ではなく、眼根が一つの対象に固定され続けることで神経疲労を引き起こすためである。眼根の物質色法は身根の一部に属し、眼根に問題が生じるのは身根の問題である。疲労感や痛みは触覚であり、身識が弁別する内容である。
眼根が長時間物を見続けると、より多くのエネルギーを消耗する。意根と意識の注意力が一つの対象に集中すると、脳細胞を消耗し疲労倦怠を招く。もし眼神経が常に緊張状態にあっても問題が生じないならば、眼識がどれほど長時間物を見ても問題ない。
眼神経は肝経と通じる。長時間の視覚使用で肝経が疲労損傷すると、肝臓に問題が生じる。肝臓の不調は意識の思惟了別に影響する。色身は識心に影響し、識心も色身に影響する。身心は相互依存の関係にある。
実際には識心自体に問題はない。問題は身体の物質的エネルギーが十分に供給できるかどうかにある。識心が正常に活動するには、六塵が正常に現れ、脳細胞が正常に活動する必要がある。物質色法の消耗過多や供給不足があると、識心の運行が影響を受け、正常な了別作用を発揮できなくなる。
目を閉じて神を養うとは、神経系の活動を調節するとも言える。神経系が過度に一方向的な強直的な活動を続けないようにすれば、身体を損傷から守ることができる。
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