衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年06月28日    金曜日     第2 回の開示 合計1649回の開示

意根が五蘊を我および我所と見なさないことこそ、真に我見を断つことである

五蘊は非我であり、異我ではない、相在しない。どういう意味ですか?観行五蘊によって我見を断除する必要がある場合、我見を断除するとは誰の見を断除するのですか?意根の我見ですか、それとも第八識の我見ですか?第八識にはどんな見がありますか?五蘊を自分の見として持っていますか?第八識は無我性であり、我見を持っていません。意根が五蘊を我として認めるため、我見が生じます。したがって、意根の我見を断除する必要があり、意根に我見を断除させるのです。我見を断除した後の結果として、五蘊は無我であると認識されます。この我は何を指しますか?妄我意根を指しますであり、五蘊が第八識を無にするとは言えません。

我見を断除するとは意根に我見を断除させることであり、意根に五蘊は我ではないことを認可させ、意根が五蘊を我として認める知見看法を変更する必要があります。最終的な結論として五蘊は無我であるとは、五蘊が意根の我ではないことを確立し、意根は再び五蘊を我として認める必要がありません。

五蘊はまた異我ではない、意根の我所有ではありません。我と我所はどちらも法に如しない、邪見であり、断除する必要があります。我と我所は生滅无常幻化的仮相であり、真實ではありません。

相在しない、五蘊の我と我所は互いに存在しない。私は我所の中にいない、我所は五蘊の中にいない。意根が五蘊を我として、また我所として認めることは錯誤であり、非量です。これらの见解を断除する必要があり、真の我見を断除するのです。

——生如法師の開示
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真に我見を断つには、観行によって意根が我ならざることも必要である

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五蘊は我ならず、異ならず、相在せず

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