衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年06月02日    日曜日     第2開示 合計1572開示

意根が専注してこそ三昧 (samādhi) がある

問:意根は決して一法に専注することはなく、時時刻刻すべての諸法に攀縁しているのでしょうか?

答:意根には確かにすべての法に攀縁する機能と体性がありますが、神様はすべての法を同時に縁できるとは限りませんし、すべての法を同時に縁したいとも思いませんし、すべての法を同時に縁する精力があるとも限りません。意根が非常に散乱して多くの法に同時に攀縁しているとき、意識が神様に付き従って攀縁することを望まないと、意根はこのようにむやみに攀縁しても無駄であることを知り、意識が興味を持たない法を縁しなくなり、次第に安定し、精力が次第に集中するようになり、それによって自らの散乱心を降伏し、禅定が現れます。これが修定の結果であり、意識の智慧による薫染の結果であり、意識が牽制した結果なのです。

だから、意根は禅定を現すことができ、自らの広範な攀縁性を降伏することができ、その心はますます集中することができ、ひいてはますますある法やある方面の法に専注するようになるのです。その注意力に重点や偏りがあり、所縁の法に選択があれば、意根には定があります。意根は自分が非常に興味を持つ事柄については、意識の牽制がなくても、自然に精力を集中して専注することができ、六識は意根に牽制されて、意根が興味を持つ事柄に専注するようになります。だから禅定をよく修めようと思うなら、意識は意根が非常に興味を持ついくつかの法を選んで意根に縁させればよいのです。こうして意根が専注してくれば、禅定が現れ、三昧 (samādhi) は速やかに成就するのです。

——生如法師の開示
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父子合集経選講(六六)

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意根の機能作用は本来具足しているものである

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