衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2018年10月11日    木曜日     第3開示 合計906開示

前念は既に断じ、後念は未だ生ぜず、中間の状態は何でしょうか

前念が断たれ後念が未だ生じていない時、それは七識が断滅したとか七識が生じていないということを意味するのではなく、まさに七識がすべて存在し、運行しているのである。その中の第七識は四果の阿羅漢が無余涅槃に入る時にのみ断滅することができ、他の者は誰も断つ力がなく、凡夫には断滅する能力がなく、地上の菩薩および諸仏には断滅する能力はあるが、いずれも断つことを望まないので、第七識は断たれない。私たちがたまたま念頭がなく、あるいは念頭が生じる中間状態にある時、意識心あるいは五識心は断滅しておらず、依然として存在して運行しており、この時には依然として一つの知が存在しており、自分がこの時一時的に念頭がないことを知っているが、この知は意識を主体とする生滅の妄心であり、もしこの心を第八識であるとすれば、それは誤った悟りである。

この状態の中では、眼識は相変わらず色を見ることができ、耳識は相変わらず声を聞くことができ、鼻識は相変わらず香りを嗅ぐことができ、舌識は相変わらず口の中の味を覚知することができ、身識は相変わらず身体が快適かどうかを覚知することができ、意識は相変わらず自分に念頭があるかどうかを知ることができる。この時六つの識がすべて存在し、意根も存在し、第八識は必然的に存在するので、念頭がない時には八つの識がすべて存在することが分かる。では、前念が断たれ後念が生じない、この中間は一体何なのか?これは意識心が法塵に攀縁しない一時的な定であり、その中には依然として意識の存在があり、第八識だけではない。したがってこの時に悟っても、必ずしも第八識を悟るとは限らず、もし意識に念頭がなく、第八識を知らず認識しなければ、なおさら悟ることはできない。

念頭がない時、あるいは少なくとも第六識、第七識、第八識の三つの識が存在する時、この時に第八識を悟ることができる。

しかし一般の人は第八識を悟る能力がなく、悟りを開く条件を備えていないため、凡夫異生の心性ははるかに降伏されておらず、根本的にまだ勝義菩薩となる資格すらないので、この中で第八識を明らかに得ることができず、したがって証悟を得ることができない。そのため、しばしば念頭がない時の意識心を真心の第八識であると認定してしまい、誤った悟りとなり、間違った誤りとなってしまう。

真心と妄心は同時に存在しており、妄心を見つけるのは容易いが、真心を見つけようとすると非常に困難であり、これには一定の因縁条件が必要であり、因縁条件が備わっていなければ、真心の第八識を証得することはできない。第八識を証得していなければ、第八識から修を始めることはできず、第八識を見つけて初めて悟後の修を始めることができる。無念の意識と第八識は特に混同されやすく、多くの人は意識に念頭がなければそれが第八識であると思っているが、実は第八識はあなたに念頭があろうとなかろうと、ずっと存在しており、後で修行して初めて第八識が存在するようになるのではない。

古代の祖師たちが参禅して悟りを開いた時、色を見ている時に悟った者もいれば、声を聞いている時に悟った者もおり、棒で打たれたり叱られたりしている時に悟った者もいれば、門に挟まれた時に悟った者もおり、悟りの方法は様々で非常に柔軟である。必ずしも念頭がない時にしか悟れないわけではなく、実は念頭がない時に悟ろうとするのは非常に困難である。そのため祖師たちは弟子たちに無念の定を修めることを許さず、無念の定はたとえ修めても悟ることはできない。

禅宗の公案を多く見れば分かるが、大多数の祖師の悟りは真の悟りであり、したがってみな道を得た人々である。現代の人は善根と福徳がどちらも不足しており、しばしば誤った仏法を伝えて衆生の修行を遠回りさせており、私たちの弁別能力はまだ十分ではなく、正誤を弁別することができない。もし念頭がない時が第八識であるならば、しばらくして念頭が再び現れた時、第八識は消えてしまったのか?そうすると第八識は生滅するものになってしまうのではないか?明らかにはっきりしている、了とは知ること、分明とは明白にすること、これも知ること、知がある限りそれは妄心であり、真心は知らず、明らかにはっきりしない。

明らかにはっきりしている時の心は様々な境界を知ることができ、知らないわけではない。六塵の境界を知ることができるものは真心ではなく、真心は六塵の境界を知らず、現在自分がどのような状態にあるか、真心は知らない、これこそが意識心が知り弁別できることであり、これが証悟の鍵なのである!意識心は時に念を離れており、霊知であるが、これも知であり、六塵を知ることができる心は真心ではない。皆さんは古代禅宗の法と多く照らし合わせてみるべきで、祖師たちがどのように悟ったか、いつ悟ったか、悟りの内容は何かをよく見てみるべきである。

六祖が悟った時、五つの何期自性を知ったが、もし離念霊知心を悟ったとしても、どうあっても五つの何期自性を知ることはできない。心経と照らし合わせると、真心は不生不滅で永遠に変わらず、この霊知心は生滅し、変わり続け、永遠に不変の状態を保つことはできず、霊知心が真心なのか妄心なのか、心の中では当然明らかになるはずである。この問題はあまりにも重要であり、必ず慎重に、生死の大事はおろそかにできず、法を学ぶには細心の注意を払い、多方面から検証し、万一間違って学んだら、それは一生一代のことではないのだ!

——生如法師の開示
前へ前へ

分段生死と変易生死とは

次へ 次へ

意根の証悟にして初めて智慧は生まれる

ページトップへ戻る