大乗正宗分第三
原文:仏、須菩提に告げたまわく。諸の菩薩摩訶薩は応に是の如くにして其の心を降伏すべし。所有一切の衆生の類。若し卵生、若し胎生、若し湿生、若し化生、若し有色、若し無色、若し有想、若し無想、若し非有想非無想。我は皆な之をして無余涅槃に入らしめて滅度せしむ。是の如く無量無数無辺の衆生を滅度すと雖も、実に衆生の滅度を得る者無し。何を以っての故に。須菩提よ、若し菩薩に我相・人相・衆生相・寿者相有らば、即ち菩薩に非ず。
釈:この品は主に菩薩たちが四相を破り、人我見を断除する問題を説く。菩薩が三界四生九有二十五類の衆生を教化滅度し、皆を無余涅槃に入らしめるが、同時に「これらの衆生は私が化度した」「私はこれほど多くの衆生を度した」という不如理な思惟観を起こしてはならない。菩薩がこのように考えるなら真の菩薩ではなく、真の菩薩は般若実相の智慧に依って四相を破り、心中に我相・人相・衆生相・寿者相を無くすべきである。
仏が須菩提に告げたまわく:諸の菩薩摩訶薩は応に是の如くにして其の心を降伏すべし。「摩訶」は漢語で「大いなる」の意。仏経中の大菩薩は一般に明心証悟以上の菩薩を指し、賢人の品德を備える。厳密には初地以上の菩薩を大菩薩・法身大士と称し、仏の一分あるいは多分の法身を証得し、一分あるいは多分の無生法忍の智慧を持ち、一分あるいは多分の道種智を具え、聖人の品德心性を備える。これを分証即仏とも称する。菩薩の熱心と善心のみあり、解悟あるいは一部の仏法を理解しているが無生智慧が出生していない場合、大菩薩とは称せられない。菩薩が初めて無生忍を開悟し人無我を証得する時、五陰十八界が虚妄無我であると忍可し、真実の出生は全く無いと知る。また如来蔵も生じず、無始劫来より存在することを悟り、ここに大乗無生智慧が生起する。
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