衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
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日常法話

2026年07月22日    水曜日     第1開示 合計4783開示

五遍行心所法の運行過程(二)

五遍行心所法は最初は作意・触・受・想の順序で運行しますが、後には必ずしもそうではなく、運行の順序が入れ替わることがあります。思心所がいつ現れるかは一定せず、意根がいつ作決(選択)を行うかも一定しません。途中で何度も思择(思量・選択)が行われているかもしれず、最初は小さな決定、あるいはある一つの環節に対する部分的な選択であり、最後になって初めて総括的で最終的な選択が行われます。途中の選択は究竟のものではありませんが、最終的な決定に対しても相応の役割を果たしています。例えば、この一口の御飯を食べ終えた後、次の一口を食べるかどうか、また何をどれだけ食べるかについて、思心所は選択を行わなければなりません。食事全体を食べ終えたら、思心所はさらに「食べ終わったのでこれ以上は食べない」という総合的な決定を行い、そこで五陰の身は碗や箸を置くのです。時に自分はもう食べたくないのに、そばの人がもう少し食べるように勧めることがあり、このとき思心所は決めかねるかもしれません。そこで思心所は利害得失を天秤にかけ、自分が食べた飲食物や胃の感覚に対して、素早くもう一度作意・触・受・想を行い、最後に「これ以上は食べられない」と思择して、この食事が終わるのです。

作意は識心の活動の始まりであり、一切の法の生住異滅の発端です。作意しなければ法に接触できず、接触しなければ受け入れたり感受したりできず、受け入れなければ了知できず、了知しなければ思量や選択はなく、選択がなければ身口意の造作もありません。だから作意は重要であり、思はさらに重要で、思の働きが最も大きく、思の過程が最も長いかもしれません。しかし受・想・思のときには、必ず触があります。触がなければ受・想・思はなく、だから触もまた重要なのです。受・想は思の前提であり基礎であり、受も想もなければ、その後の身口意の造作もなく、識心は寂静となり、清浄 (viśuddha/pariśuddha) となります。だから大修行人は法に対してわずかで一瞬の作意しか持たず、触した後には覚受を生じさせず、了知しようとも思わないので、次の段階の行為や造作がなく、心もなく事もないのです。

一つの法を運行しているとき、作意はずっと存在しています。注意深く考えようとするときには、六塵は単独の法塵へと転じます。法の重点が移るということは、別の新しい作意が現れたことを意味します。最初に作意から想へと至る過程では、作意・触・受・想・思の運行は特に短く、特に速いかもしれません。刹那のうちに思に至りますが、了知が不明瞭なため思量もはっきりせず、改めて作意・触・受・想を行わなければならず、この過程は繰り返し繰り返し、相続して絶えません。この過程を細かく観察することは非常に難しく、大まかに観察するだけでも相当に困難です。しかし、自分や他人の身行・語行・思想・観念を観察することによって、対照しながらその一部を観察し出すこともできます。


——生如法師の開示
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