瞋恚には意識による偽の瞋恚と、意根による真の瞋恚とがあり、恨みの程度によって、それが真の恨みなのか偽の恨みなのかが分かります。意根と意識の心所法は、観察し分別することはそれほど難しくありません。ところが今日、仏法を学ぶ人の中には、教科書を暗記するようにあちこちで暗誦して、それを百分の百正しいものとみなし、観行と思惟をしようとしない者がいます。もし意根に勝解がなければ、どうしてそれほど多くの正しい決択を下すことができるでしょうか。とりわけ断我見と明心見性の決択において、勝解がなければ、意根はどうやって意識とともに参究し、最後に破参することができるでしょうか。意識が与える数多くの情報を、意根が勝解してはじめて、正しく了別し決断を下すことができます。さもなければ決断はすべて誤りとなり、衆生はどうして正常に生存していけるでしょうか。
たとえ意識による思惟がないときであっても、大事が起これば、意根はすぐに事態の重大さを了知し、即座に決定を下すことができます。勝解がなければ慧はなく、勝解は慧の前提です。意根の「思」については、その内包が何であるのか、どのように運行するのかを確実に語れる人は誰もいません。思とは決定という意味だと言えるだけで、思量の具体的な内包、さらには思がどのように運行するのかとなると、まったく分からないのです。
意根の念心所も同様です。時には夜に一つのことを考えていて、その後寝ようとすると、そのことが頭の中でずっと考え続けられ、意識はいつも「早く寝なさい、もう考えるのはやめなさい、そうしないと明日の朝起きられないだろう」と注意します。しかしそれはしばらくの間しか制御できず、いつの間にかまたそのことを考え始め、ついには不眠になってしまいます。意根の攀縁、習気、執着といった特性は、結局のところ心所の上に現れるのです。
<h2 style="text-indent: 2em;">人に依って法に依らなければならないからこそ論争がある</h2>意根の運行を現量で如実に観察するには、唯識種智の智慧が必要であり、最低でも初地菩薩の観察の智慧がなければなりません。意根を観察できず、意根を真実に了知できないからこそ、論争が生じるのです。浅い法には論争がありません。なぜなら誰もが容易に観察できるからです。観察できないものについてのみ論争が起こるのであり、さもなければ何を論争するというのでしょうか。白は白、黒は黒です。白黒をはっきり分からないからこそ、論争が起こるのです。意根にはいったいどのような心所法があるのか、誰が実際に観察して検証できるでしょうか。第六識と第七識はいずれも染汚の煩悩であり、遮障がそれほど重いのに、実際に観察する能力などあるでしょうか。もし検証できる者がいるなら、その検証の過程を語るだけで論争は鎮まるはずです。
法に依るとは、意根の運行の真実相に依るということです。もし意根を観察できなければ、どうして意根の真実相に依って意根を定義できるでしょうか。どうして真に実際の実相法に依ることができるでしょうか。実相法に依ることができないなら、それは人に依ることであり、人に依ることは仏法の修証の宗旨に合わず、誤りや漏れがあり、仏意に合わず、まして道を得ることはできません。
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