衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年07月15日    水曜日     第1開示 合計4776開示

修行とは何を修めるのか?

修行の果てに結局、意識を打ち殺すのか、それとも意根を打ち殺すのか?意識を打ち殺すことを因とし、意根を打ち殺すことを果とすれば、意根を打ち殺すことが最終目的であるとはいえ、着手点はやはり意識から着手しなければならない。意識は毎晩死んでおり、植物状態の人の意識もほぼずっと死んでいるようなものだが、それでも後世はやはり三悪道を免れず、まして六道輪廻は免れない。これは何を物語っているのか?生死の大きな権限が意根の手の中にあることを物語っている。ゆえに修行は必ず意根のところまで落とし込まなければならず、意根をはっきり理解し、意根を調伏し、意根の無明を断除しなければならない。意根の無明を滅するには、一体どのように操作すればよいのか?無明は一切の煩悩心所法を引き伸ばしていくが、では煩悩心所法は主に誰の心所法なのか?意根の無明によって生老病死苦が引き起こされるのであり、どの煩悩心所法が意根に具足していないというのか?もし意根が一切の煩悩心所法を具足していないなら、修行はとても楽で愉快なものになるのではないだろうか?

ある人は、意根は善でも悪でもないと言い張るが、そうであるなら、私たちはまだ修行する必要があるだろうか?修とは、無明の悪法を修除し、善法を具足することである。もし意根が善でも悪でもない法しか持たないなら、衆生は修行する必要がなくなる。如来蔵 (tathāgatagarbha) は善でも悪でもないので、如来蔵は決して修行せず、そもそも修行する必要もまったくない。何を修めというのか、神様に何を改めさせるというのか?神様には無明がなく、悪もなく、邪でもない。如来蔵がもし修行に行くなら、おそらく邪に修められ、歪に修められてしまうだろう。善悪はみな無明であり、無明があれば必然的に善と悪がある。如来蔵には無明がないので、善業を造ることもなく、悪業を造ることもなく、縁に随って応対し、用心するところがない。無明があってこそ瞋心があり、初めて心を起こして殺業を造るのであり、無明があってこそ愚痴があり、初めて殺業を造るのである。

——生如法師の開示
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意根の心所法はなぜ意識より少なくないのか?

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五蘊と十八界の対応関係が意根の心所法の重要性を示す

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