唯識の修証において、意根は核心である。なぜなら、如来蔵は誰の指図も必要とせず、変える必要もなく、修行はひたすら意根に心を用いることによってのみ可能であり、意根を変えれば、一個人が凡夫から果地の仏へと変わるからである。また、意根を変えることによってのみ、あらゆる法を変えることができる。すべての無明は意根の中にあり、意根の無明を尽くし破れば成仏し、意根を変えれば種子が変わり、種子がすべて清らかに変われば成仏する。意識の無明はすべて意根から来ており、意根に依って初めて意識と意識の無明が存在し、意識と意識の無明は断ち除くのが容易であり、決して難しいことではない。難しいのは意根にある。ゆえに、意根の心所は意識より少なくてはならず、意識の心所法とほぼ同程度であるべきである。禅定力と観察力が共に著しく不足していれば、意根を証することができず、ましてや意根の心所法の運行を観察することはできない。意根がいかなる法の中での運行状態も知らず証しないため、軽々しく意根の様々な心行を否定し、あたかも意識の心行であるかのように言い放つのである。
意根が法を証しなければ、無明を破ることができず、意識の無明を破っても無駄であり、何も変えることはできない。今のところ、意識に何か仕掛けをしても無駄であり、一切の法の修証は意根に深く入り込まなければ、根本的な問題を解決できない。この筋道をはっきりと理解すれば、仏法の修証について語ることは何もないはずである。
意識の心所法と意根の心所法の関係
問い:「識の種子が生じ出て七つの識を形成した後、心所法が伴って運行し、識心に初めて善・悪・無記の三性が生じる」とあります。この心所法は意根の心所法に当たるのでしょうか?なぜなら、意根には倶生と分別の習気があり、前六識は識の種子が生じ出て形成される時はすべて清らかであるはずで、意根の心所法の影響を受けて初めて三性を持つようになる、という理解は正しいでしょうか?
答え:どの識が運行するかによって、その識の心所法が伴います。意識は意根の調節と指揮を受けるため、意識が運行し始めると、それ自身の心所法が現れるのは必ず意根の心所法の影響を受け、意根の調節を受けます。意根が善を行おうとすれば、善心所法が現れた後、必ず意識の善心所法を生じさせ、意根の指令を完遂します。悪心所法や無記心所法が現れる場合も同様です。
意根が布施をしようとすれば、必ず六識を指揮して具体的に操作させます。こうして六識が生じるのは意根に協力するためであり、布施という善行を実行するためです。ゆえに、意識の心所法は生じるや否や必ず善であり、意根の心所法と一致します。意根が布施を望まなければ、布施という善行においては、意識および意識の心所法は生じず運行しません。つまり、識心の心所法が働けば三性が現れるため、識心を清らかにするには、根源である意根の心所法を清らかにすれば、残りの識心もそれに従って清らかになるということです。
意根が人を殺し火を放とうとすれば、六識を生じさせてこの悪事を完遂させます。なぜなら、人を殺し火を放つ具体的な操作は六識がなければ完遂できず、意根は操作できないからです。ゆえに、六識が生じるや否や、心所法は必ず悪であり、意根の心所法と一致します。したがって、意根が一切の善・悪・無記の心所法を具えていなければ、六識に一切の心所法を具えさせて身口意の行を操作させることはできません。ある人々が言うように意根には一部の心所法しかないのであれば、多くの事柄について意根は主となって造作することができず、意根が主とならない事柄を、六識がどのように操作するというのでしょうか?
意識の心所法は初めは意根と一致しますが、思考した後に事柄が間違っていると感じれば、心所法を変え、振り返って意根を説得し熏染することもあります。意識が意根に背くこともあります。例えば、意根が悪事を働こうとしても、意識がためらい実行せず、考えを変えた後に意根の考えを変えることもできるのです。これが意識の熏染作用です。意根を変えるのは常に意識の熏染を通じて行われ、ある出来事を経験するたびに、意識は利害を考え、それによって意根は利害を知り、以後の行動に取捨選択が生じます。ただし、意識の熏染には速い遅いがあり、それは意識の智慧と巧みさにかかっています。
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