指とは、心所法が自己の修行の目標を指し示し、無明を破り、煩悩を降伏させ断ち切り、心の働きを転じ、業種を転じることであり、帰とは、心を智慧に帰し、清浄に帰し、解脱に帰することである。すなわち、オペレーティングシステムは、心所法に依拠し、心所法を絶えず修正し、心所法を転じていく。実修とは、心所法を操作する過程と心所法の操作過程であり、自らの心が自らの心を変える過程である。
心所法が変わり得る理由は、意識が意根をうまく熏習したことにあり、意根が悪を捨て善に向かい、自らの心の働きを転じたことによる。転じる根本の因は如来蔵であり、如来蔵が意根の心所法を転じるのであるが、如来蔵は作主識ではなく、主とならず、主観的な能動性を持たず、受動的に意根の心の働きに従って種子を転じる。種子が転じれば、果も転じる。万物の生起は如来蔵から生じるが、その背後にある推進力は意根の心所法であり、意根が何かを為そうと欲さなければ、如来蔵は何も為さず、一切の法は生じない。
意根には主観的な能動性があり、心の性質が転じれば業種の変化を促す。心所法の転じることが因であり、業種の変化が果である。意根が真理を認識し、真理を実証することが因であり、心所法の転じることが果である。意根が三十七道品を精進して修行することが因であり、実証が果である。意識が理にかなって熏習し導くことが因であり、意根が熏習を受けることが果である。もちろん、実際の真の修行の各段階は、意根の心所法に変化をもたらし、心所法の変化が果であり、因はやはり意根の心所法が自らの心所法に対応する変化を促すことであり、前提として意識の心所法が意根の心所法を推進することが必要である。
心所法は必ず識心と同時に現れる
心所法は識心の助伴であり、必ず識心の運行に伴わなければならず、さもなければ識心は何も為せない。識心が現れれば、心所法も必ず同時に現れ、心所法なしには識心は運行できず、そうすれば世間の一切の法も生じ存在し得ない。第八識の運行でさえも、自身の心所法の協力を必要とし、第八識自体の存在もまた、心所法の伴侶を離れてはありえない。
四食の出現と運行は、すべて識心の機能作用であり、識心は心所法の助伴を離れられず、四食も心所法を離れられない。凡夫は四食を離れられず、聖賢も欲界の人間界において四食を離れられない。禅定の境地が比較的高い衆生は、団食や思食を離れ、時に触食も離れることができるが、識食を離れることはできず、衆生の生命の最も基本的な必要として、第八識と第七識の識食がなければならない。
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