鶴千行:一生は荒唐狂い、満把の辛酸の涙。生如法師の多くの著書を読んだ後、書中の内容と方法に従って、自分の身心世界に没入して自分自身を細かに観察した。よくそこで立ち尽くして、それらの法義を細かに観察し味わった。身心世界の外にある声、画像、味、触覚は、本当に根元から深く掘り下げてみれば、さまざまな要素が合成された一つの泡にすぎず、泡は浮かび上がっては、すぐに砕けて、まったく得るところなく、実質がない。内面のその識心は、塵に触れたときに分別した善悪、好悪、順逆も、細かに推し量ってみれば、やはり一つの泡であり、稲妻のごとく、縁起して有り、縁滅すれば滅し、これもまったく得るところなく、実質がない。
「私が見ている」「私が聞いている」「私が嗅いでいる」「私が触れている」と考えるその私は、さらに深く観察してみると、実はただ一つの認知にすぎず、一つの取り違え(錯認)にすぎない。自分の身体を観察すると、外部の塵と何ら変わらず、これもさまざまな要素が和合してできた泡であり、ただの道具であって、私そのものではない。外部世界がすべて泡であり、識心が泡であり、身体も泡であるなら、「私が私である」と考えるその認知も、やはり一つの取り違えでしかありえない。したがって、私たちの身心世界であれ外部世界であれ、もともとすべて泡の積み重ねであり、一つの泡がまた一つの泡につながり、みな夢幻泡影なのである。
この点を観察した後、自分の前半生を思い出すと、突然、途方もなく荒唐無稽に思えた。荒唐無稽なだけでなく滑稽でもあり、道化役のように、一场の不条理劇をあれほど真剣に演じていた。それから狂ったように笑い始めた。身心が制御できないほどの狂笑で、自分の真剣さを笑い、それらの執着を笑い、それらの妄想と追求がいかに荒唐無稽で滑稽であるかを笑った。笑い終わると、突然、一種の辛酸が胸に込み上げて、また泣き出した。全身が震え、涙と鼻水がともに流れた。辛酸を感じたのは、過去のあの幕の数々の甘酸苦辣は、すべて自ら苦しみを求めたもので、身に覚えのない苦しみだったからだ。泣き終わり、笑い終わると、身心全体が一種の静けさに入り、外部世界から疎遠になった。まだこの世界に生きてはいるが、外部世界のすべてが自分とは関係ないかのようだった。内心ではただ念仏して浄土を求め、菩薩の同士となることだけを願い、その他のすべてに対して興味を失い、金銭を追求したくなく、名利を追求したくなく、他人からの承認を追求したくなく、さらにはそれらの高深な理論を追求することさえしたくなくなった。
世界はまるで一つの磁石のようで、以前は磁性が非常に強く、自分は吸い寄せられてあちこちに引っ張り回された。しかし今は磁性が大幅に弱まったようで、偶然にまだいくつかの妄想や執着が起こることはあるが、もはやその後の原動力がなく、泡がいくつか立ち上がったかと思うとすぐに消えてしまい、まるで根を失ったかのようだ。念が起こったときに一たび観察すれば、泡は自ずと消散し、その後の実質的な行為を形成できない。
今この世界に生きていて、しばしば夢の中に生きているような感覚がある。この世界への没入感がなく、ただの観察者にすぎない。観察といっても、静かで意図的でない客観的な観察であり、「私が観察する」という心も特にない。生活に愛着が湧かないのは、内面の外へ求めるエンジンが止まってしまったからであり、あるいは半死半生で、たまに気力なくプルプルと数回動くだけだ。この世界には追求すべきものが何もないように感じ、ただ静けさを求め、喧騒を好まず、縁に随って生き、人と接するのも、夢の中にいるかのようだ。
これほど多くを語ったのは、自己を証明したいわけではなく、実は自分はまだ初期段階にあり、将来まだ多くの道を歩むべきだと個人的に思っているからだ。ただ言いたいのは、生如法師の本は実修を導く本であり、純粋な理論ではないということだ。理論は自分の身心世界を観察するための指導、ナビゲーションとして用いるものであり、単に研究するためだけに使うのであれば、意味はあまりない。
評: この二年間のあなたの言動の変化を見ていると、ますます修行が身についており、ますます菩薩性が備わってきていると感じる。もともとこのように深い自己観察があり、このように深い悟性があったのだな。このような観察の智慧は、相応の定力なしにはありえない。現量観察であって分析ではないからだ。あなたは自分の禅定について語ってはいないが、現量観察の智慧がそれを示している。あなたのような悟性は、ほぼ初果向の程度に達しているが、さらにあなたの禅定修行の状況と合わせてこそ、あなたが現在どの修行段階にいるのかを具体的かつ如実に判断できる。あなたの心は現在小乗の空の中にあり、大乗の空はまだ起こっていないため、やや消極的に見える。これはまだ初期段階にすぎず、ゆっくりと出世の心をもって入世すれば、そのとき円融となる。一歩一歩ゆっくり進めば、結果はすべて円満だ。私のこれらの弟子たちは、本当に私の予想を超えている。師匠である私は、ついに収穫を得始めた。もう以前のように苦労ばかりではない。
鶴千行:私は以前、仏法の研究に熱心で、仏経をたくさん読み、師匠の本もたくさん読んだ。しかし、自分はこれほど多くを理解し、さまざまな理論を自由自在に引き出せ、さらには体系化さえできているのに、なぜさまざまな境界が訪れたときには、依然として抑えきれずに貪り、瞋ってしまうのか、ということに気づいた。それで、理論の研究だけでは通用しないことを知った。必ず実際に修めばならない。そこでそれらの理論を手放し、ただ観心に専念した。日常生活の行住坐臥の中で、念が起これば覚り、覚れば止まり、止まれば観を起こす。少しずつ収穫が得られるようになったのは、すべて師匠の実修せよという教えのおかげであり、身心歓悦している。
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