如春:意根が夢境を造り出すが、意識はなかなかその意味を理解できない。これは主に意識の受容能力が不足しているためか、それとも意根のフィードバック能力が劣っているためか?
回答:意根と意識の相互コミュニケーションが円滑でない原因は、主に二点ある。第一に、意根自体の智慧が不足しており、夢中や禅定中、その他の状況において示される境界が適切でなく、意味が曖昧で不明瞭であること。第二に、意識の智慧が不足しており、意根が示す境界の意味や指向性を十分に理解できず、意根の心意を見透かせないこと。この二者の少なくとも一方に智慧の不足があり、時としてまたある者においては意根と意識の智慧が共に脆弱であるが、これは往々にして福徳が薄いことによる。
如春:ある同門の書いた「意根の使用体験を学ぶ」という文章を読み、弟子は多くの法において生じる智慧は、全て意識と意根が共同で協力した結果に属すると考えます。理由その一:もし意根が単独で思量して智慧を生じる場合、意根が意識に何かを知らせようとする時、心で作意(さくい)するやいなや、意識は直ちに言葉を用いずとも知ることができる。例えば意根が自身のある問題に対する答えを意識に渡す時、言葉や文字を用いず、あたかも「パッ」と意識が知ってしまうような感覚である。それはあたかも誰かがあなたに一幅の絵の画面を説明する場合、あなたが想像を巡らせてもおおよそしか分からないが、彼が直接絵を広げて見せれば、あなたは一瞬にして全てを理解するようなものだ。具体的にどのように伝達されてくるか、意識は知らない。ただ自身のひらめきだと思い込む。ただし受容する内容については、意識に智慧と勝解力(しょうげりき)がなければ、完全に領納し明らかにすることはできない。
講評:意根が自身で思量し出した法を意識に伝達し、意識に明らかにさせるこの過程は、すなわち意根が法塵(ほうじん)と接触し、作意を通じて意識が法上に生起するものである。刹那のうちに五遍行心所法(ごへんぎょうしんじょほう:触・作意・受・想・思)が作動し、意識は意根が押し出した法を理解する。五遍行心所法は識心の作動する五つの過程のように見えるが、実際には非常に迅速であり、過程があるとは感知できない。しかしどれほど迅速でも過程と呼ばれる。意識の智慧が不足し理解力が劣る時、一瞬の躊躇が生じる。智慧がさらに不足すれば躊躇する時間が延長し、絶えず思惟し琢磨し続ける。智慧が更に不足すれば、長時間考えても理解できず、言おうとしてやめ、もごもごと明確に説明できなくなる。
如春:意根の思量と表現方法は往々にして簡潔・直截・真実・覇気に富み・豊か・格局(大局観)が大きく・束縛されない(故に革新できる)。ただ心で悟るのみで言葉で伝えることはできず、以前師父が言われた「千言万語尽在不言中(千言万語は黙するに如かず)」の如くである。意識の千言万語も、意根が語らない意境・夢境・情境(例:一夜にして白髪になる、抱き合って泣く等)には及ばない。しかし意根がある場面や時間において言語や文字による表現が必要だと感じれば、六識(六つの認識機能:眼・耳・鼻・舌・身・意)に千言万語を語らせる。
講評:意根はただ心で悟るのみで、言葉で伝えることはできない。意根は話すことはできないが、意根の意や心に含まれる法はあまりにも多く、情報量が膨大で、意義が非常に深遠である。にもかかわらず意根は一瞬にしてこれほど膨大な情報量の法を明明白白と意識に伝達できる。結果は意識の領受力と表現力次第である。時には意識の領受力が非常に優れていても、表現しようとすれば千言万語を要し、非常に煩雑で、必ずしも明確に説明できるとは限らない。これは意識自身が思惟し出した法ではないため、他人のことを話すのは少々説明しにくいのである。そして意識が語ろうとする千言万語は、全て言葉を発しない意根の心中に存在する。故に意根の心には高度に凝縮され極めて簡潔な意があり、簡潔直截で、あっさりしている。
如春のこの言葉はよく言い得ている:意識の千言万語は、意根が語らない意境・情境・夢境には及ばない。これらの境は意識に明らかにさせるために設計されたものであり、一つの境界を意識が千言万語を用いて記述し表現しても、なお明確かつ十分に表現できるとは限らない。
如春:理由その二:意根の機能は強大であるが、その多くの思想や智慧は、意識に相応する智慧がなければ、その中の意味や心意を正しく理解し、その後具体的な法をもって表現し、事と理を円融(矛盾なく調和)させることができる。これが我々が常に言う「心存高遠,脚踏实地(志は高く、足元は地に着ける)」である。もし意根の慧のみが高く、六識の慧が皆低ければ、意根はおそらく鬱屈を感じるだろう。故に意根と意識の双方に智慧が必要であり、互いに通じ合い互いに知り合い、マッチング度が高くなってこそ、「以心伝心」(心に一点通ずる)が可能となる。このような理解が正しいかどうか分からない。
講評:この文章に示された智慧はなかなか良いが、言語表現が円満ではなく、用語が精確さに欠ける。我々衆生は皆、意識の知を以て知とする。意識が知った後、初めて五識(五感の認識)と共に処理し造作(行動)できる。では意根が考えや念いを抱いた時、意識が知り実行する必要がある。当然ながら意識がより智慧に富むほど、意根の心積もりや考えを正しく理解し明らかにでき、正しく理にかなって身口意行(身体・言語・心の行為)を通じて貫徹実行できる。故に意根と意識という二つの識心の智慧は互いにマッチングしていなければならない。さもなければ二者のコミュニケーションがうまくいかず、物事の処理がうまくいかず、一方あるいは双方が抑鬱や無念さを感じることになる。
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