衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2018年10月10日    水曜日     第5開示 合計903開示

我執と習気の断除

慢は七種類に分けられる:慢・過慢・慢過慢・我慢・増上慢・卑劣慢・邪慢で、いずれもいわゆる「我」によって生じる慢である。ゆえに我慢が根本であり、これによって他の慢が生じる。したがって他の慢は修行によってまず断除し、我慢は最後に断除する。小乗では四果阿羅漢の位で我慢を断つが、なお我慢の習気が残る。大乗では初地菩薩の位で我慢を断つが、習気は残り、この我慢の習気は八地菩薩の位に修めて初めて断ち尽くされる。これを見れば習気の根深さがわかる。

我慢の習気とは何か。例えば木の上に嫌な虫がいて体に落ちてきたとき、普通の人は無意識にすぐに払いのける。考える必要もなく、思考せず、無意識に素早く反応できる。これは意根が自我を守る習慣であり、危険を考えずに回避し、自分が嫌うものを拒絶するもので、これが我慢の習気である。なぜ衆生は皆このような習気を持つのか。衆生の意根は無始劫以来、ずっと五陰身を我として執着してきたため、この習気が根深い。たとえ我見を断ち我慢を除いたとしても、意根の深層には依然として五陰の我という概念や念があり、習慣的に五陰の影が残って消えていない。七地・八地の菩薩になって初めてこの我慢の習気を断つことができる。阿羅漢は我慢が現行しないようにできるが、初地以上の菩薩になって初めて少しずつ我慢の習気と貪瞋痴の煩悩の習気を断ち始める。阿羅漢が煩悩を断つのも煩悩の現行を断つのであり、すべての習気は初地以上の菩薩位になって初めて徐々に断除され始める。

我々の心中の煩悩は非常に深重で、その数も極めて多く、断除は難しい。しかし実際、難しいと言っても難しくはない。勇猛精進に修行すれば、煩悩はまるで日の出で雪が解けるように消え去る。ゆえに難易はすべて自心次第である。悟道の人が禅宗の悟りの難易を形容したように、龐蘊は言う「難しや難しや、十担の麻油を木の上に広げるが如し(参禅して悟ることは、十担の胡麻油を木の上に広げるように難しい)!」。すると龐婆が言う「易しや易しや、百草の頭に西来の意あり(草の葉の先にも祖師西来の意がある)!」。霊照は「難しくもなく、易しくもなし。飢れば飯を食い、倦めば眠る(難しくもなく易しくもない。お腹が空けばご飯を食べ、疲れたら眠るだけ)」。三人は悟りに対して三つの感覚、三つの見方を持っている。ゆえに、一切の法の難易は人による、人の根機の利鈍によるのである。難易は相対的な法であって仮の相であり、真に難易が存在するわけではない。

——生如法師の開示
前へ前へ

無上菩提を証得する方法とその果報

次へ 次へ

邪見の断除

ページトップへ戻る