衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年03月03日    火曜日     第2開示 合計4636開示

金剛経講義・究竟無我分第十七

この品において世尊は究竟無我について説かれ、須菩提にこう告げられた。菩薩が広大で甚深な菩提心を発し、無量の衆生を広く度した後は、我という想いと衆生という想いを滅し尽くさねばならず、我相もなく衆生相もなく、心の中に次第に無我を保ち究竟無我に至らねばならない。実際の理の境地においても確かに無我であり、人我であれ法我であれ存在しないゆえ、すべて滅し尽くすべきである。このようにして初めて甚深な菩提心と相応し、自我を降伏させ、心が清浄を得て、諸仏が初めて授記を与えて仏となる。たとえ仏となっても、心の中は無我であり空であり、成仏という法相もなく、衆生を度すという法相もなく、いかなる法相も存在しない。

<h3 style="text-indent: 2em;">菩薩が衆生を度すには三輪体空であるべき</h3>

原文:爾時須菩提白佛言。世尊。善男子善女人。発阿耨多羅三藐三菩提心。云何応住。云何降伏其心。

解釈:須菩提が仏に問うて言う。世尊よ、善男子善女人が阿耨多羅三藐三菩提心を発したならば、いかにして住すべきか、いかにしてその心を降伏すべきか。

これは須菩提が衆生に代わって世尊に質問したもので、菩薩たちが大乗菩提心を発した後、いかにしてこの心を安住させるべきかを問うた。この心とはどの心を指すのか。菩提心を発することのできる六七識の心を指し、真に菩提心を発しない真心たる如来蔵を指すのではない。如来蔵は何の心も発せず、心行がなく、願いもなく、成仏しようとも思わず、その心行は無所住である。須菩提の智慧をもってすれば、世尊に如来蔵はいかに住持すべきかを問うはずがなく、ましてや世尊は金剛般若が心无所住の体性であることをすでに説かれている。須菩提は問うたのである。菩提心を発することのできる妄心が、清浄なる大願を発した以上、依然として以前のように世俗法の色声香味触法に住し、五陰に住すべきかどうか、これらの世俗法のために発心すべきかどうかを。大乗菩提心を発した後は、もはや以前のように一切の世俗法相に執着すべきではなく、貪瞋痴の煩悩が熾盛であるべきではなく、この心を降伏させるべきである。ではいかにして降伏させるべきか。

原文:仏告須菩提。善男子善女人。発阿耨多羅三藐三菩提心。当生如是心。我応滅度一切衆生。滅度一切衆生已。而無有一衆生。実滅度者。

解釈:仏は須菩提に告げられた。善男子善女人が阿耨多羅三藐三菩提心を発したならば、かくの如き心を生ずべし。我は一切の衆生を滅度すべし。一切の衆生を滅度し終わって後、しかも一人の衆生も実は滅度した者ではないと知るべきである。

ここでの滅度には二つの意味がある。一つは、衆生が五陰無我を証得した後、次第に我執を断じ尽くし、四果を得て無余涅槃に入り解脱を得ることである。無余涅槃の後は五陰七識ことごとく滅し、十八界の法すべて消失し、三界世間の相も消え失せ、ただ不生不滅の金剛不壊の心たる如来蔵のみが残り、一切の無い寂滅無為の境界に住する。この衆生は消失滅亡し、これを滅度という。

滅したのに、なぜ度したというのか。この衆生は、もと六道で輪廻し悪業を造り、無量無辺の苦悩を受けていたが、今や意根が一念の無明を滅し尽くし、もはや生死輪廻の業を造らず、ましてや業に随って三界世間に輪転し生死の苦を受けることもない。今後は生死の苦受もなく、いわゆる彼も存在しない。真実の彼たる如来蔵は業を造らず、生死もなく、まして苦を受けることもなく、純粋に寂滅無為である。ゆえに、度とは生死の苦を度越し、六道輪廻を度過することである。

滅度にはもう一つの意味がある。菩薩が衆生を教導し実相心如来蔵を証得させた後、七識妄心が次第に無明煩悩と煩悩習気を滅し尽くし、八識ことごとく識を転じて智と成し、究竟円満の無上尊となり、もはや衆生ではなくなることである。こうして、この衆生は滅度され、完全に一尊の果位たる仏世尊となり、もはや理上の仏に留まらない。このように衆生が滅度されるのは、究竟に滅度され、最善最上の滅度であり、尽善尽美にして一片の遺憾もない。

かくして、すべての衆生を滅度し、無量無辺の衆生がことごとく滅度された後も、心の中に「自分がすべての衆生を滅度した」という想念はなく、むしろ自分は一人の衆生も度化しておらず、一人の衆生も度されていないと覚る。これはおかしい。なぜ一人の衆生も度していないと言うのか。明らかにすべての衆生を度したではないか。

——生如法師の開示
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