まずタイトルについて述べる。「能浄業障分」である。業障とは、皆がよく知っているように、衆生が過去世に造作した悪業の種子が成熟し、いま果報が現前して、自らの种种の正業が阻碍され遮障されることである。仏道を修学する者にとって、最大の障害とは、自らの仏法に対する修学を障害すること、正知見の獲得を障害すること、自らの禅定(じょう)を障害することである。要するに、業障は衆生の一切の正報と依報を障害しうるのであり、仏法修学に対する阻碍は、後世の五陰 (pañca-skandha) の正報と依報をいっそう思いどおりにならなくさせる。それゆえ、業障を清浄 (viśuddha/pariśuddha) できることは非常に重要であり、業障が除かれた後は、仏道の修学に阻碍がなく、円満な福德と智慧を獲得し、一切の無明を断除し、究竟の無上正等正覚を成就するのである。
金剛経のこの一品において、世尊は、金剛経を修学し、金剛の実相心を証悟し、実相心に依って修行すれば、次第に業障を浄除し、遮障を減らすことができると説かれた。金剛経は衆生の四相を直接破除できるからであり、四相を破除すれば、世俗の有為相の遮障は抜き去られる。さらに、実相心である如来蔵 (tathāgatagarbha) を証悟した福德によって、重罪軽報を感得し、悪業の果報を提前して現前させ、この業障を抜き去るのである。こうして一つひとつの業障がことごとく抜き去られ清除された後は、無明が滅し尽くされ、悪業の果報がなくなり、衆生は成仏するのである。
原文:复次。须菩提。若善男子善女人。受持读诵此经。若为人轻贱。是人先世罪业。应堕恶道。以今世人轻贱故。先世罪业。即为消灭。当得阿耨多罗三藐三菩提。
解釈:さらに続けて説く。須菩提よ、もし善男子・善女人が、この金剛般若波羅蜜経を受持し読誦し、経中の甚深の義に依って行持するとき、もし人がこのときにその者に対して誹謗し、欺辱し、罵倒し、軽蔑するならば、その者の悪業は滅することになる。この人は前世に悪業を造作したことがあり、悪縁が成熟すれば、本来は悪道に下堕して悪報を受けるはずであったが、いま金剛経を読誦受持する縁故によって、前世に造作したその悪業の業縁が提前して成熟するよう促され、しかしいま世人に軽賎される縁故によって、重罪軽報となり、前世に造作した悪業はたちどころに滅し、まもなく仏道を成就するのである。
なぜ今世に金剛経を読誦受持すると、前世の悪業の縁が提前して成熟するのか。この人が金剛経を読誦受持することによって、福德と功徳を修出するからであり、福德功徳の現れの一つが、悪業の縁の提前した成熟であり、悪報を少なく受けること、すなわち重罪軽報である。善業であれ悪業であれ、いずれも高額の利息を持っており、これは「孽息」とも呼ばれる。銀行の預金のように、預ける期間が長いほど利息は高くなり、預金は増えていく。この預金はまさに善悪業の業報に相当し、善業を預ける期間が長いほど、得られるはずの善の果報は大きくなる。逆に、悪業を預ける期間が長いほど、受けるはずの悪の果報は大きくなるのである。
修行が得力すると、悪業の縁を成熟させ、悪報を提前して受けさせ、感得する悪の果報は軽微なものとなる。そうであるなら、皆は善業を造作するとき、善業の果報が一刻も早く現前し、一刻も早く享受できることを望んではならない。これは智慧のない心行である。善業の果報を早く受ければ受けるほど、高額の利息を享受できず、利子が利子を生むという優厚な待遇も享受できない。真の修行者は目光の短い者であってはならず、自分の目先の果報のみを考えるのではなく、むしろ後世のために、無量劫以後の無上の果報のために着想し計らうべきであり、最善は善果や善報に対して無心であることである。
それゆえ、この金剛経を読誦受持する人は、修行が得力し、功徳福德が現前したことによって、悪業の縁を熟させただけでなく、悪道に下堕するはずの悪業を、ただ他人に軽賎されるという軽微な悪報を受けるだけのものへと変え、その悪業は滅したのである。この人はこうして軽やかに悪報を受けたのであり、これは善業の感得であり、福德の感得である。人が絶えず精進修行を続ければ、福德はますます大きくなり、功徳はますます増えていき、逆境が一つひとつ次々と現前し、前世のすべての悪業が一つひとつ滅していく。すべての悪業が滅し尽くされたとき、この人はまもなく仏道を成就するのであり、業が了し尽くされて、仏道すなわち成るのである。
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