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日常法話

2026年01月18日    日曜日     第1開示 合計4583開示

金剛経解説·如来の三十二相もまた相にあらず

如法受持分第十三 原文:須菩提よ、どう思うか。三十二相をもって如来を見ることができるか。いいえ、世尊よ。三十二相をもって如来を見ることはできません。なぜなら、如来の説かれる三十二相は、すなわち相にあらず、これを三十二相と名づけるからです。

釈:須菩提よ、この問題をどう見るか、三十二相を以て如来を見ることはできるか。須菩提は答えて言う:できません、世尊よ、三十二相を以て如来を見ることはできません。なぜそう言うのか。如来の意旨によれば、如来の説かれる三十二相もまた真実の相ではなく、仮に三十二相と名づけられたものだからです。

三十二相が真実でないならば、それは如来でもない。ならば別に真の如来があるはずであり、我々は三十二相を如来と見なすべきではなく、また三十二相の上に如来を求めるべきでもない。真の如来は三十二相の背後に隠れており、その真の姿を見ようとするならば、極めて大きな智慧と福德を具えねばならない。三十二相が如来でないように、五蘊もまた我ではなく、人ではなく、衆生ではなく、寿者ではない。我々は五蘊の中のいずれか一蘊、あるいは全部を我として執着し続けるべきではなく、五蘊の相を破り、それによって我相・人相・衆生相・寿者相を破らねばならない。

如来には三十二相八十種好があるが、三十二相は真実に存在する相ではなく、八十種好も真実に存在する相ではない。これらは全て無から有へ、有もまた空へと至る相であり、如来の無垢識が如来の三大阿僧祇劫にわたる修行の善業の種子によって変幻した相である。その性質は空であり、相もまた空である。三十二相は仮の相に過ぎない。転輪聖王もまた三十二相を持ち、仏の従弟である難陀比丘も三十一相を持ち、魔王もまた三十二相を変幻することができる。もし相をもって人を認めれば、誤って認めやすく、もし相が滅すれば人も滅するが、実際には如来は滅しない。ゆえに真の相と仮の相を見分け、相を破り執着を破らねばならず、そうして初めて智慧を増長し、相に縛られなくなる。

原文:須菩提よ、もし善男子・善女人ありて、恒河の砂のごとく等しい身命をもって布施せん。もしまた人ありて、この経のうちにおいて、すなわち四句偈などを受持し、他人のために説かば、その福徳は甚だ多い。

釈:須菩提よ、もし善男子・善女人が、自分自身を恒河の砂のように数多い色身として布施したとしても、もしまたこの金剛経の中で、たとえ一つの四句偈子を受持理解し、かつ他人のために説く人がいれば、得られる福徳は、恒河の砂のように多い身命を布施するよりも多い。

世尊は前文で既に二度、金剛経乃至四句偈子を受持し人に解説することは、三千大千世界の七宝を布施すること、あるいは恒河の砂のように多い七宝を布施することによって得られる福徳よりもはるかに多いと述べられた。ここで再び強調されるのは、恒河の砂のように多い身命を布施するよりも福徳が多いということである。七宝や財物を布施することは外財布施であり、色身を布施することは内財布施である。内財を布施することは外財を布施することよりもはるかに福徳が多く、両者は比べものにならない。なぜなら外財は内財に依って存在し、外財が失われても再び得られるが、内財が失われれば何も残らなくなるからである。

衆生は無始劫よりずっと、自らの色身生命を固く執着し、自らの身体や寿命が少しでも害されることを許さず、まして布施として捨て去ることなど、清浄な大願を発した大菩薩でなければ極めて難しい。等覚菩薩は成仏の福徳がまだ不足しているため、一日も早く仏道を成就せんがために、百劫の間、専ら福徳を修め、自らの内財を布施する。衆生が身体のどの部分を必要とすればそれを布施し、何を求められれば何を布施する。飢饉の世においては、大身に変じて衆生に食わせ、その飢えを解決することさえある。こうして成仏に必要な福徳を十分に積み、初めて補処の菩薩(候補仏)となり、兜率天の内院で因縁の熟するを待ち、下生して人間界で八相成道し、仏果を円満成就する。

色身生命を布施することがこれほど重要で福徳が大きいにもかかわらず、世尊は言われる、それでも金剛経および四句偈子を受持し衆生のために演説することによって得られる福徳の方が大きいと。なぜなら金剛経を受持して明心見性することは、仏道成就の基礎であり、明心見性した後は智慧がますます深く広くなり、最終的に仏地の智慧を具足することができるからである。しかしながら、外財を布施することと内財を布施することの福徳は、どちらも具えるべきである。外財布施によって得られる福徳がなければ、福徳が具足せず明心見性することも、地上の菩薩となって一歩一歩上向きに修行を進めることもできない。そして内財を布施することは、自我という小さな我を完全に棄て捨て、徹底的な無我に達することによって、初めて究竟の大我、および仏地の常楽我浄の我を証得することができるのである。

世尊は繰り返し布施の重要性を説かれる。財施、無畏施、法施はどれも重要であり、前二種の布施によって修めた福徳がなければ、法施を行うことはできない。なぜなら法を証得せずに行う法施は、往々にして衆生を誤導し、福徳どころか罪報を受けることになるからである。ゆえに修行者は巧みに布施行を修めるべきであり、これは菩薩の六波羅蜜、十度万行において最初に修めるべき内容である。


——生如法師の開示
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