衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年01月15日    木曜日     第1開示 合計4580開示

一つの話頭だけを参じてこそ精力を集中して話頭を攻破できる(2025-03-03)

釈如願:師父のご教誨を拝受してからというもの、師父が私にお教えくださった一語一句を心に刻んで覚えております。師父が私をご教誨くださる時は、後頭部を軽く叩かれたような感じがして、明らかな加持力があり、しかもその加持力は非常に大きいのです!ここ数日、頭の中が真っ白な感じがして、ただ師父が私にお教えくださったあの言葉だけが残っています。五蘊はすべて偽りなのに、なぜまだ五蘊の活動があるのか、死屍を引きずって歩いているのは誰なのかを観察しなさい、という言葉です。この言葉を思惟するたびに、師父の慈悲深い指導とご教誨を思い出し、感動の涙を落としてしまいます。

数日前、娘が映画『哪吒2』のチケットを買ってくれました。彼女たちと一緒に映画を見ている時は目を閉じることができず、我慢して見終えました。以前映画を見る時は、映画館のスクリーンの音や物音が耳を震わせるほど大きく感じられたのですが、今回見に行った時はそれほどの物音を感じず、見ている時は、脳裏に浮かぶスクリーン上の影像を見ているような感覚で、気づけば二時間余りが過ぎていて、映画で何が演じられていたのかも分かりませんでした。映画を見ている間、私は禅定の中で、これらの人や物事の五蘊がどのように働いているのかを思惟していました。私は時時刻刻、定の中におり、深い定の中にある時は心は明らかですが、分別する力がなく、六塵の境界を分別することができないのです。

師父が私たちに禅定を修めるようお教えくださることに感謝いたします。定の中でこそ、「凡所有相皆是虚妄(すべての相はみな虚妄である)」という道理を深く体得することができるのです。心が執する念頭はこのように虚妄なものであり、私はもう二度とこのことに時間を無駄にしません。心を用いさえすれば、行住坐臥のいずれの時も、心は自ずと心の中で念じ思惟しています。私が歩き坐り臥するこの五蘊の色の殻を引きずってあちこち走らせているのは誰なのか、念仏しているのは誰なのか、手を挙げ足を上げるのもすべて道場から来たるものである、あるいは機関木人の機発相起、仏祖西来の意といった話頭や疑情を観察する。法塵の中で機能妙用を現起させているのは誰なのか、五陰という死屍を引きずってあちこち走らせているのは誰なのか、背後で意根の衆生とともに身口意の六根の門頭において機能妙用を現じている力は誰なのか、と。

心を用いて観察し疑えば、この心には何とも言えない心の動きがあり、この覚受は言葉では表現できません。師父が今回また弟子の私の愚痴無明の心を少し破ってくださったことに感謝いたします。今後はむやみに観察することはなく、一つのテーマに沿って定の中で深い思惟を起こし、実修実証していきます。いかなる法を参究するにも禅定は欠かせず、深い定の中でこそ実修実証ができるのです。実修実証してこそ、大恩大徳の師父がこの数年来、苦口婆心に教導してくださったことに背かずに済むのです。

評:映画を見ながら映画の境界に執着しないというのは、すなわち境に対して心がなく、貪りなく執着なく受けることもない、これが真心の空であり、口では空を言いながら実は有を執する偽の空ではない。真空になってからは、定水の滋潤のもとでこそ、貪らず嗔らず煩悩を起こさない。参禅が少し乱れていて、頭の中から出てくる話頭や疑情が多すぎる。一つの話頭だけを参じればすべての疑情を解決できるのであり、すべての疑情に対してことごとく心を用いて参じる必要はない。これほど乱れて散漫では、参じても結果は出ない。

釈如願の修行の道筋はまさにテンプレートであり、皆がこのような道筋に沿って歩めば、修行は速くて直截であり、回り道をしない。定の中で智慧を開発することは修行の根本であり、自分で開発した智慧こそ本物の中の本物であって、未来世に持ち越すことができ、永遠に消えることなく、生生世世にわたって受用し尽くすことができない。最も忌避すべきは口舌に逞しく、おおげさに語って実を務めないことであり、天上の花が乱れ舞うほど語ったとしても、それはすべて空花であり、実用の価値はない。

——生如法師の開示
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金剛経講解.如来、微塵と世界相を破す

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