釈如愿:時折、私も自性如来蔵が様々な面に現れる妙用を観察します。それは如来蔵という存在を直接見るのではなく、あらゆる面で発揮される作用を観察し、その作用の中に如来蔵の痕跡を探り、その妙用が顕現する様子を観るのです。電気と電気器具の関係に似ています。電気の本質は目に見えず、触れられず、味わえず、嗅げません。ただ電源、電灯、電球、テレビ、洗濯機といった電気器具の上にその痕跡を探り、その機能作用が現れる様子を観察するのです。以前は師父の法義を読んでも、思考を巡らせてようやく理解できましたが、今は禅定を得たので、観行で法義を観る際には頭脳は明晰で、心は開かれ、言葉に尽くせない喜悦感があります。禅定の力が煩悩や雑念を調伏する様は、実に不可思議です。
講評:ここには認識し解決すべき二つの問題があります。第一の問題は、もし電気器具の上で電気の機能作用を観察することが電気を証得することに相当するなら、電気は様々な電気器具において具体的にどのような機能作用を果たしているのでしょうか? 具体的な作用を指し示せなければ、それは電気を証得したことにはなりません。電気の働きは見えず、その作用原理は観察できず、存在形態は判別できず、電気の構成はなおさら不明です。これでは電気を実証したとは到底言えず、問えば何もわからず、無明は微塵も破れていません。もし電気器具が作動する時には電気が存在することを知り、電気が電気器具を働かせることを知っているなら、三歳の子供でもそれはわかります。子供も電気を証得し理解したと言えるでしょうか? 知っていることと証得し理解することは同じでしょうか? 常識は実証と等しいでしょうか? 技術者や科学者の電気に対する実証は、これとどう違うのでしょうか? 多くの人は「証」の意味を理解せず、「証」の内実と対象を明瞭にせず、漠然と根拠のない自信を持ち、認知の智慧が欠如しています。
第二の問題は、如来蔵を証得する前に、如来蔵が様々な法において果たす機能作用を観察すること自体がパラドックスだということです。それはあたかも、まだある人物(某甲)に会ったことがないのに、その人物の容貌を観察し、その容貌からその人物を認識しようとするのと同じで、非常に矛盾しており滑稽です。如来蔵がどのような特徴を持ち、どこで作用し、何を為すかを知らないのに、どうしてそれを如来蔵を観察していると言えるでしょうか? 頭の中で如来蔵を想像し、如来蔵がどんな作用をしているかを想像する、もしそのような想像を観察と呼ぶなら、そのような観察は無から有を生み出す自欺行為です。
もし如来蔵が一切の法において具体的にどのような機能作用を果たすかを知らず、如来蔵の相貌特徴を知らないなら、それは実証とは無関係であり、学んだ理論的知識に基づく臆測に過ぎません。初禅定や未到地定の中でそのように行っても、それは依然として臆測であって現量の観察ではなく、まだ如来蔵を実証していないのに、どうしてそれを観察できるでしょうか? それはあたかも、まだ某甲に会ったことがないのに、どうして某甲を観察できるのか?というのと同じです。釈如愿の大乗への取り組み方は、彼女が学んだ如来蔵理論に基づき、如来蔵の存在を信じ、如来蔵が一切の法を執持する機能作用を持つと信じるがゆえに、接触する法の上に如来蔵が作用していると想像することです。これは因果転倒の行為です。自らが如来蔵理論の真実性を特に強く信じているがゆえに、如来蔵が一切の法において作用していると特に強く信じる一方で、具体的に何を為しているかはわからない。これは如来蔵の実証とは全く関係がなく、信じることは証得することと同じではなく、そこには実(まこと)もありません。釈如愿および全ての人々がこの理を明らかにし、因果転倒の行いをしないことを望みます。
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