睡眠と禅定の区別 いわゆる禅定とは、心の想念が集中して散乱せず、六根を収摂し、一つの境に縁って、雑然と攀縁しないことである。眼識の意識が一つの色塵に専注し、他の塵境を遮断する。あるいは耳識の意識が一つの声塵に専注し、他の塵境を遮断する。あるいは意識が一つの法塵に専注し、他の塵境を遮断する。これらの六識の専注は意識を主とし、意根が一切の法を統括する。意根が雑然と攀縁せず、少数の法塵にのみ縁れば、六識は一つの境に専注できる。意根は主導する識であり、六識はすべて意根の意に従わねばならないため、意根を降伏させて初めて禅定の修習に成果が現れる。
いわゆる睡眠とは、六つの識が一時的に断滅して現れなくなり、こうして身心が疲労を解消することである。もし六識が滅しなければ、識心には現行の活動があり、覚醒時と同様で、それは睡眠ではない。そうなると身心は真の休息を得られず、身体は依然として疲労を感じる。
睡眠は夢ありと夢なしの二種類に分かれる。夢のない睡眠時には六識が現起せず、第八識と第七識のみが崗位を守り、色身の生命活動を維持する。夢がある時は意識心が夢境において軽微な分別活動に参与するため、睡眠は深沈ではなく、身体は十分な休息を得られず、翌日には疲労感が生じる。
禅定と睡眠の二つの状況には、いずれも第七識と第八識の運行が存在する。禅定中の第七識は有効に降伏されており、攀縁が減少する。攀縁が少なければ少ないほど軽微になり、意識の入定はより深くなる。睡眠中の第七識は依然として身根と法塵に攀縁し、身体が休息を必要としていることを知るのみで、六識が出て分別するのを許さないだけである。
初禅以前の定中には、六つの識が六塵を分別しているが、六塵を分別する程度は異なり、識心の専一な程度も異なり、身心の感受も異なる。初禅の中では鼻識と舌識が現起せず、二禅以上の禅定では前五識が消失し、第六識・第七識・第八識のみが残る。意識は比較的深細な定境に住して定境法塵を了別する。無想定と滅尽定の中では意識も滅尽し、第七識と第八識のみが残る。
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