衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年01月04日    日曜日     第1開示 合計4569開示

禅定と福徳は一切法を成就する前提(2024-04-02)

釈如願:最近、頭頂と額、眉間の緊張して張った感じが軽くなり、眼根にできものができて汚れを外へ排出する現象も軽くなりました。今は目で物を見ると疲れて開けられず、色塵を了別できませんが、時々念頭が少し現れても、構わずにおくと消えてしまいます。

頭部の気が通った後、私はまるで人が変わったようで、全身がふわふわと軽く、とても快適で愉悦を感じます。しかし、あらゆる人や物事に対してまったく興味が持てず、外出する時も色・声・香・味・触を分別したくありません。私の心念は六塵の境界の上にないので、日常どんなことをするにも用心することができず、時には知らないうちにじょうに入ってしまい、じょうの中でも脳裏の仏号の声を聞くことができ、観行 (vipaśyanā-caryā) の法義も妨げられません。

観行の法義は以前よりいっそう明晰で、法義を一度見るだけでずっと観続けることができ、妄念も非常に少ないです。数日前、太陽が沈みかけた時、目で沈む夕日を見るとそれが脳裏に入り込み、行っても臥しても座っても夕日が消えず、焼けた鍋の蓋が脳裏で照らしているようで、ほかほかと温かい感じがしました。私の頭は風を入れて寒がりなので、いつでも太陽が焼けた鍋の蓋のように頭部を焼いていると観じると、本当に頭部がほかほかと温かくなり、冷たい痛みの感覚が次第に消えていきました。これは心念力・観行力が思議不可思議であることを示しています。

以前は家族を手放せなかったので、白骨観を修する時、まず親しい家族から観じ、彼らがみな白骨に変わることを観想しました。始めのうちは心が恐慌と苦しさを感じましたが、観じることに慣れてからは、どんな姿の衆生に出会っても、皮を一枚まとって面罩をつけてあちこち動き回る白骨として観じることができます。今では私が行住坐臥する時、脳裏には血肉のついた白骨が一面に並んでいる姿が現れ、ある白骨は古びた木の人形の山のようで、首が切れ腕や足が欠け、体が傾いています。こうした影像が絶えず脳裏に現れてくると、この五蘊の色の殻は木のようで、真実性がなく、生滅無常で敗壊していくものだと感じます。

ここ数日、庵に行って佛七に参加しました。念仏 (buddhānusmṛti) や読経をしていると、念じているうちに身体がどこにあるのか分からなくなり、他の人がとても遠く離れているように感じ、物を見るのは鏡の中の像を見ているようで、声を聞くのは再生機の音を聞くように真実味がなく、そこでぼんやりと脳裏の仏号の声を聞いていました。

評:これは禅定の功徳です。定力が強い時は、法義を一度見るだけで覚えていられ、観行を続けることができ、法義を繰り返し見る必要がありません。陽光の観想や沈む夕日の観想も同じで、何を観想しても同じようにできます。禅定の力が思議不可思議であることが分かります。禅定があれば一切の法を成就でき、諸仏菩薩の禅定力は無量の神通道力を発起し、無量無辺の事業を成就し、三千大千世界を自在に変化させることができます。禅定力があれば、心の中で想像した法も現実となり、眼前に現れることがあります。このような状態にある人を、他人は軽々しく挑発してはなりません。その人の念力は非常に強大で、あなたを罰しようと思えば、会わずともあなたを罰することができ、あなたは何が起きたのかも分からないでしょう。その人に報復や罰の心がなかったとしても、その人の修証の水準が高く、徳行が深く、福德が大きければ、悪人に悪報を招感させることができ、さらに護法神の加護があれば、悪人が受ける罰はいっそう大きくなります。

多くの人が法を学んでも学び続けられず、深入りできないのは、自らの福德が具足しておらず、定力がまったく語れず、仏法が心に入らないためで、水面に浮かぶ浮草のようです。だから修行の過程において、福德は非常に重要であり、禅定力も同様に非常に重要です。この二つが欠け、さらに戒をよく持たなければ、学仏はただの「学」にすぎず、学ぶことすらうまくできず、理が通達せず至る所に滞碍が生じ、理論と実際が結びつきません。法を学ぶにはまず意識に頼りますが、禅定がなければ、意識の理解と思惟は非常に浅く、論理性と智慧力を具えません。だから意識の智慧も禅定があってこそ具足するのです。法義を思惟してもどうしても通じない時は、禅定が欠けているのであり、福德も欠けているかもしれず、それが意識の思惟を浅くし、深入りできないようにしているのです。

法を学び修行するにあたり、第一歩で実修実証がなければ、さらに五歩先の法義を思惟理解しようとするのは、非常に骨が折れ、心が疲れ、理解がまったく的を得ません。さらに十歩先の法義を理解し思惟しようとするなら、それは天書を読むのと同じで、面白くは面白いですが、どんな実際的意義があるのかは分かりません。だから、ある層面の法義を考えて理解できず思惟が通じない時は、一歩退ってその次を取り、福德を修め、禅定を修めれば、智慧は一段深くなり、前の基礎の部分の実証を目指すことができます。

誰でもこの段階まで修めると、ほとんど誰とも同居できず、独りでいると自分の面倒も見られないので、これは最も困難な時期です。真の修行人は世の中で少し障害があり、人と付き合えず、独りでいるにも相応の条件がなく、この世界と融合するのは非常に難しいのです。

禅定が障縁に出会い、少し退転した時、意根の思量 (manasikāra/manana) と観行が不足し、意識の思惟分析が現れます。深い禅定の中であっても、意根の智慧が不足すれば、如理に観行できず、意識による理解と分析で代用することになります。意識の機能・作用が大きくなると、それは観行ではなく分析と想像になってしまうので、未到地定 (anāgamya-samādhi) が具足している人も必ずしも証悟しているとは限りません。もし禅定から退出した状態、あるいは定の浅い状態で結論を得たなら、この結論は意識を主とする結論であり、そのような結論は信頼できる結論ではなく、後に変化して退転し、認めなくなるでしょう。たとえ退転しなくても、意識の結論は証悟の結論には属しません。

四念処は三十七の助道品の中の四つの助道品であり、修行の結果は断我見 (ahaṃkāra-mamakāra-parityāga) して証果することです。四念処を修すると同時に、他の道品も次第に具足し、三十七の道品がすべて具足して初めて見道できます。人生は苦短く、人命は無常です。時間を惜しんで証できるものはできるだけ証し、来世も人身を得て修行を続けられることを保証することこそが根本です。今世は学ぶのが好きで何にでも興味を持ちますが、何も証得できなければ、後世に一旦三悪道へ行ってしまったら、何ができるでしょうか。賢明で智慧のある人になりましょう。一鳥在手は十鳥在林に勝ります。掴めなかったものは、どれもあなたのものではありません。

さらに、まだ世間のあのわずかな可哀想な福報を大いに享受し、色・声・香・味・触をどれもこれも抓取し、ほんの少しも手放すことを惜しみ、仏法は修めず、心にも入らない人たちがいます。後世に一旦三悪道へ行けば、それは長劫の苦であり、一瞬の享受もありません。その時に悔やんでも間に合うでしょうか?


——生如法師の開示
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