衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年12月29日    月曜日     第1開示 合計4564開示

念仏三昧の殊勝な境地

釈如願:私は朝夕の坐禅時にまず数回呼吸を観じますが、しばらく観じていると無意識に呼吸観察を忘れてしまい、自動的に色身不浄観へと移行します。自分と衆生の色身がどれほど不浄であるかを観じます。時折娘が傍で何か話しかけても、私はいつも聞こえず、彼女の声が非常に遠く感じられ、心に全く反応がありません。時には慌てたり、頭がぼんやりしたり、まるで夢を見ているようで、全身に力が入らず呆然としています。全く彼女の話を聞く気になれません。

同時に頭の中では仏号(念仏)の声が絶え間なく響いています。心が清浄で念頭が無ければ無いほど、頭は軽くなり、観想法義が途切れず続きます。頭の中の仏号の声は抑えようとしても抑えきれず、心が休まると念仏の声が連続して続き、周囲の音が全て仏号に聞こえ、念頭を転換することもできません。今では朝目覚めると、まず坐り直して静かに仏号の声をしばらく聴いてから、起きて顔を洗い歯を磨きますが、頭の中の仏号の声は相変わらず絶え間なく続いています。この時私は念頭を転じて色身不浄を観じます。人が嬰児期、児童期から青年期、壮年期、老年期を経て死に至る生老病死の現象を観じ、人が死に至る過程と苦しみを観じます。

それ故に私は大願を発して精進し、心を込めて生如恩師の法義を学び、しっかり修行しようと決意しました。父が亡くなった時は、師匠がお話しされた「生きた亀の甲羅を剥ぐような」苦しみそのもので、彼の死の過程が深く私の脳裏に刻まれています。時折坐禅につくと当時のことを思い出し、頭の中に父が白骨と化す映像が浮かび、さらにその白骨が粉々に砕けて消えていくのをゆっくりと観じます。以前、私が初めて法を聞いた頃はどう修行すれば良いか分からず、兄と義姉が「分からなければしっかり念仏しなさい」と助言してくれました。その時から私は有求の心で念仏を始め、数年念仏を続けましたが、念仏しながら心ではまだ妄想を巡らせていました。

生如恩師の法義に巡り会えてから初めて私は大きな転機を迎えました。2019年末、生如師父は浙江の寺院で私たちに五戒と菩薩戒を授けてくださいました。受戒の際に私は師父の加持力が不可思議であることを感じ、その時私の身体は動かなくなり、心は空っぽになりました。その後、師父の法義を読む度に進歩を実感し、紙の書籍でも電子書籍でも特別な香りを感知します。この世のものとは思えないその香りは、私の左下の歯の隙間や口腔内からも何度か放たれました。私は何をしていても心が虚ろで、他人が話しかけても声が非常に遠く感じられ、まるで自分に向けられた言葉ではないようです。

なぜなら、坐禅で法義を観じている時は心がはっきり覚醒しているのに、楞厳呪を誦え始めると、誦えているうちに誦経自体を忘れてしまい、半ば眠っているような状態になります。目を開けて誦経すると身心と目が非常に疲れ、目を閉じて誦経すると、誦えているうちに意識が途切れ、気づくとまだ誦経を続けていますが、どの段落まで進んだのか分からず、時にはこの繰り返しで四、五回も経てようやく全文を誦え終わります。もし経本を見ながらなら非常に覚醒していますが、坐ると身体が非常に疲労し、気力が不足しているように感じます。

評釈:釈如願は2023年に念仏三昧を証得し、毎日欠かさず念仏を続け、禅定力が非常に優れています。このような禅定の中で色身不浄観を行うのは、大変効果的です。彼女がなぜこれほど優れた三昧の境地を得られたのでしょうか。一つは前世における修行の善根によるものであり、もう一つは今生における出離心、つまり世間法に対する全くの興味喪失と微塵の執着心の欠如によるものです。この状況下では、いかなる妄想や妄念も生じようがなく、禅定の功夫は自然と向上し、三昧も速やかに得られ、仏法の観行も大いに効果を発揮します。根本的に言えば、彼女の出離心が強く、世間の虚妄と無意味さを見抜き、世俗への心を完全に閉ざしたため、三昧を得ざるを得ず、禅定は自然と訪れたのです。禅定を修められない人々の根本原因は、世俗法に親しみ貪着しすぎている点にあり、単に身体や外相にのみ努力を注いでも全く無意味です。


——生如法師の開示
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