衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2025年12月18日    木曜日     第2開示 合計4554開示

念仏三昧の境地において観行法義を修めることは禅定を失うことになるのか?

釈如願はこう述べた:真に深甚なる三昧を修得すれば、いかなる仏法を観じても消失することはなく、法義を観じることも全て三昧の中で成就される。念仏三昧を修める者は、世間における大小の事柄に遭遇する時も心に仏を思い、絶え間なく仏を念じ続ける。そうすれば念仏の心念は消失しない。もし定力が不足しているか全くない場合、念仏の心念が分散すれば、三昧の境界は必ず消失し、念仏を続けることができなくなる。

評釈:釈如願は禅定が比較的深いため、彼女が念仏三昧の中で法義を観行しても三昧の定境は消失しない。しかし他の者は必ずしも定境を保持できるわけではなく、もし念仏三昧が浅い場合、法義を観行する時間が長くなると定力も次第に弱まり、ついには消失することもある。念仏三昧を修得した後も慎重に保持し続ける必要があり、仏法を観行する時間は長すぎず、定と慧を兼ね備えることが大切である。特に心に世俗の事柄が増えた後は、念仏三昧が薄れたり消失したりする。

仏は弟子たちに、修行においては定と慧を等しく保つよう求められている。慧を用いることが多くなった時は修定を強化し、定が深まり心が沈滞した時は速やかに修慧を行う。どちらかに偏るのは良くない。もし定に偏れば心は愚痴に陥り、慧に偏ればそれは狂慧となり、何の役にも立たない。両者を兼修して初めて正しい修行となり、最も速く進む。以前、一部の人々が記した観行の体験は、定が浅いか無定の状態での観であり、実質的には法義に対する理解と分析に過ぎず、内心の触動は大きくない。そのため心の行いにも変化がなく、数年経っても依然として変わらない。

この問題は、まさに念仏三昧を得ようとしている者、あるいは既に得た者が注視すべきである。一方、念仏にまだ効果が現れず、手がかりすらない者は、まず如何に念仏すれば効果があるのか、なぜ自分には効果がないのかに注目し、原因を見出して念仏の問題を解決すべきである。成就後に初めて現れる問題を探り聞くことに精力を費やすべきではない。目前に迫る苦境の解決法を知らず、成就後の事柄に興味を持つのは、差し迫った苦しみに無知無覚な状態であり、これは世の苦しみを知らない表れである。多くの者が苦の中にありながら苦を知らず、認識の智慧を持たないのである。

——生如法師の開示
前へ前へ

金剛経講義・一相無相分第九

次へ 次へ

金刚経の解説・なぜ二果のスカーダガミーは「私はスカーダガミーの果を得る」という考えを持つことができないのか?

ページトップへ戻る