衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年08月23日    土曜日     第1開示 合計4455開示

夢中殺人と覚醒時殺人の区別

夢の中と現実の違いは、夢の中には外相分が存在せず、何も変化しないのに対し、現実では外相分の変化があり、他者を利益する行為や害する行為といった実質的な出来事が生じることである。したがって、夢の中で業を造っても実質的・具体的な果報はないが、現実で業を造れば実質的・具体的な果報が生じる。これ以外は、夢の中も現実も同様に虚妄不実である。

夢の中で千元を布施したとしても、実質的な金銭が布施されたわけではなく、実質的な人物がその金銭を得たわけでもない。ゆえに実際には真実の布施行為は存在せず、ただ布施の心行が存在し、他者に惜しみなく与える心行が存在し、物惜しみしない心行が存在するのみである。それがすなわち意根の心行である。夢の中で意根の心行が善であることは、その人の心性が真に善であることを示し、善心は福を生じ、福報と善報をもたらす。心がどれほど善であるかが福の大きさを決め、果報の大きさを決める。夢の中での布施は、意根の心性が善であることを示し、性善であれば善報があり、死後には善趣へと趣き、意根の心性に相応する場所で生を受け生活することとなる。善には善の福があり、これが心性の善報である。意根の心性が悪であれば、福報を損ない、意根の心性に相応する悪所へと趣き、報いを受ける。これが善悪の果報である。

もし現実で千元を布施したならば、実質的な金銭が布施され、実質的な人物がその金銭を得ることに加え、布施の行為が存在する。この三つが具足すれば、果報も具足して受けることとなる。将来、少なくとも百千万倍の金銭が還元されるとともに、相応する福徳が生じ、善報と福報がもたらされる。もし意根が心性の善悪によって六識に善悪の業行を造作させた場合、心性の果報に加え、業行の業報が生じる。業報は非常に具体的な果報であり、寸分の狂いもなく清算され、必ず業果が償われることとなる。

夢の中で人を殺すことと覚醒時に人を殺すことの違いも同様の理による。夢の中では実質的な人物が殺されたわけではなく、実質的な殺人行為は存在しない。しかし殺人の心行は存在し、その果報は主に心行による。心性が悪で不善であるがゆえに福徳を損ない、後世にはその心性に相応する悪所へと転生し、悪不善の果報を受ける。一方、覚醒時の殺人には実質的な出来事があり、人物が実際に殺され、実質的な外相分が消滅する。したがって殺人の業果を償う必要が生じ、将来には悪心・瞋恨の心性による果報、および命の借りを返済する果報がもたらされる。例えば、戒を受けた後に破戒した場合、破戒行為によっては心性上の罪のみならず業行上の戒罪も生じ、両者が合わせて報いを受ける。戒を受けていない者が悪業・不善業を造作した場合、戒罪はないものの心性の悪による罪は存在し、依然として悪果報がある。悪事を行えば、戒を受ける・受けないにかかわらず悪報があるが、戒は自心に対して一定の抑制力を有し、修行にとってより有利である。

意根は衆生の根本心性を代表する。意識は粉飾や偽装が可能であるが、意根はそれができず、偽ることができず、虚偽を弄することはなく、自らの心性を絶対的に真実に表現する。夢の中では意根が絶対的に主導権を握り、意識の作用は非常に微弱で、ほとんど意根を制御する役割を果たせない。ゆえに夢の中では偽造も偽装もできず、現れるのはすべて意根の心性であり、最も真実である。


——生如法師の開示
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