この問題については、世尊が戒律を制定された出发点と原則が何であるか、なぜこれらの戒律を制定されたのかを理解する必要があります。もしこれらの戒律が制定されなかったならば、犯戒の行為がなくても、因果がなく罪の報いもないということになるのでしょうか。たとえば人を殺す業は犯戒行為に属しますが、もし殺人が犯戒に当たらないとしたら、それでも地獄に堕ちて報いを受けるのでしょうか。明らかに、因果の法則は、戒律の有無によって存在したりしなかったりするものではありません。たとえ殺人が犯戒行為に属さないとしても、やはり地獄に堕ちて悪い報いを受けなければなりません。悪い報いを受けること、あるいは善い報いを受けることは、仏が定めたり咒願したりしたものではなく、如来蔵の因果の法則によって決定されるのです。
そして、佛陀がこれらの戒律を制定されたのは、衆生に何ができて何ができないか、何をすればどんな果報を得るかを知らせ、それによって衆生の心行を規範し、悪業を少ししか造らせない、あるいは造らせないようにして、悪い報いを受けるのを避けさせるためです。戒を制定して衆生に遵守させるのは、悪い報いを受けるのを避けるためなのです。たとえ戒律の束縛がなくても、衆生の一つ一つの心行のその瞬間ごとに、如来蔵が記録しており、業種を集めており、業種の成熟の時に至れば、業縁が現れ、悪報がそれに続いて現前するのです。それならば、皆さんは戒を受けて束縛がある方がよいか、戒を受けず束縛がない方がよいか、考えてみてください。衆生はみな悪が多く善が少ないものであり、もし束縛がなければ、心の赴くままに行動し、必ず悪習に随って悪業を造り、悪報は避けられないものとなり、避けられずに三悪道の常客となってしまうのです。
一人ひとりの身口意行を観察してみれば、三悪道の習性が非常に多く、非常に明白であることが分かりますが、当人はそれに気づかず、しかもしばしば独りよがりになっています。修行の良い習慣を持たない人は、私と自分の行為が完全に正反対であるのを見ると、無意識のうちに私の修為や物事のやり方に指図を加えますが、まさに自分自身が顛倒していることを知らず、私にも同じように顛倒して自分と同じになってほしいと望むのです。このような人は、もし佛と親しくなったならば、同様に佛に対してあれこれと口を挟み、佛陀の修為に指図するでしょう。
もし佛が世に出現されなければ、戒律もありませんが、業報は依然として存在し、凡夫はただ業を造り報いを受ける果てしない循環に陥るだけで、どうすれば脱出できるかを知りません。だからこそ戒律はあまりにも重要なのです。もし戒を持たなければ、修行がどれほど大きな進歩を遂げることはあり得ません。
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