衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年08月18日    月曜日     第1開示 合計4450開示

戒律を犯して悪い報いを受けるのは、仏が定めたものか、それとも因果の法則が決めたものか?

この問題については、世尊が戒律を制定された出発点と原則が何であるかを理解する必要があります。なぜこれらの戒律を制定されたのか、もしこれらの戒律が制定されなければ、戒律違反の行為がなければ因果も罪報も存在しないのか?例えば、殺生の業は戒律違反の行為に属しますが、もし殺人が戒律違反とならない場合、それでも地獄に堕ちて報いを受けるでしょうか?明らかに、因果の法則は戒律の有無に関わらず自然に存在しており、たとえ殺人が戒律違反の行為に該当しなくても、依然として地獄に堕ちて悪報を受けるのです。悪報や善報を受けることは仏が規定し呪願したものではなく、如来蔵の因果法則によって決定されるのです。 そして仏陀がこれらの戒律を制定されたのは、衆生にどのようなことが行えて、どのようなことが行えないか、どのような行為がどのような果報をもたらすかを知らしめ、それによって衆生の心と行いを規範化し、悪業を少なくあるいは造らせず、悪報を受けるのを防ぐためです。戒律を制定して衆生に遵守させるのは、悪報を受けるのを避けるためです。たとえ戒律の制約がなくとも、衆生の一つ一つの心と行いの瞬間に、如来蔵が記録し、業の種を集積しています。業の種が成熟する時が来れば、業縁が現れ、悪報がそれに伴って現前します。ですから、皆さんは戒を受けて制約がある方が良いか、戒を受けずに制約がない方が良いか考えてみてください。衆生は皆、悪多く善少なく、もし制約がなければ、心のままに振る舞い、必ず悪習に従って悪業を造り、悪報は避けられず、また避けられずに三悪道の常連となってしまうのです。 各人の身・口・意の行いを観察すれば、三悪道の習性が非常に多く、非常に顕著であることがわかりますが、自分自身はそれに気づかず、常に独りよがりです。修行の良い習慣がないため、私の行動が自分自身と完全に逆であるのを見ると、無意識のうちに私の修行や行動を指導しようとする人もいますが、まさに自分自身が逆さまであることに気づかず、私もまた逆さまになって自分と同じになることを望んでいるのです。このような人は、もし仏と親しくなれば、同様に仏にあれこれ指図し、仏陀の修行を指導しようとするでしょう。 もし仏が世に出なければ、戒律も存在しませんが、業報は依然として存在します。凡夫は業を造り報いを受ける無限の循環に陥るだけで、どのように脱するかを知りません。ですから戒律は非常に重要であり、もし戒律を守らなければ、修行が大きく進歩することはありえません。


——生如法師の開示
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