衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年08月14日    木曜日     第1開示 合計4447開示

殺意が心にあっても行動に移さなければ戒を犯すか?

これは小乗の教えにおいては戒を犯したことにはならず、行動がなく、事件が未遂で、人を殺していないため、殺生戒を犯していない。しかし大乗においては戒を犯すことになる。なぜなら心はすべての事柄の主であり、またすべての悪の主でもあるからである。殺意という心の念いがあって初めて、それに続く身体的行動と言葉の行動が現れる。心に殺意が起これば、殺業が生じる。したがって殺意があれば、大乗の戒律においては戒を犯したことになる。実際に殺したかどうかは関係ない。念いが決定作用を持つ。念いは心の善悪を表し、念いが起これば業が生じ、果報は心に従って現れ、生死は心によって存在する。なぜなら、念いが一度起これば、行動がまだ追いついていない時点で、如来蔵が記録を取るからである。将来、如来蔵はこの記録に基づいて善悪の業の果報を実現する。もし行動がさらに追いつけば、悪業はより固められ、果報はより堅固になる。真の修行者は軽率に念いを起こさず、起こすとしても清浄な念いを起こし、衆生を利益する念いを起こすのである。

衆生が殺生戒を犯す根本原因は、瞋りの心と争い勝とうとする心にある。瞋りの煩悩心を降伏させさえすれば、殺生戒を犯すことはなくなる。瞋りを生じやすい人や事柄から離れ、競争や勝ち負けの環境から遠ざかり、人と争わず、事と争わず、自我の心を降伏させれば、基本的には殺生戒を犯すことはなくなる。

瞋恚の心が強く染みつくのは、様々な娯楽やゲーム活動である。そこでは様々な戦争や武闘がシミュレートされ、打ち殺し合いや流血、暴力が関わってくる。そうしたゲームに没頭する人は、自らの心を深刻に汚染し、これらの染汚に侵され、知らず知らずのうちに流血や暴力を受け入れ、打ち殺し合いがごく普通のことだと思うようになる。将来、現実生活で逆境に遭遇した時、争いの心を起こしやすく、さらには暴力をふるうことさえあり得る。

戒経において仏は、たとえ仮想の殺害であっても、実在の人物や実際の出来事がなくても、戒を犯すことになると説かれている。なぜなら心の念いが動き、心の行いが起これば、悪業の種子が残され、因縁が熟せば悪報が現れるからである。心の念いがすべてを決定する。すべての悪念、不善の念を取り除き、善念を具えてこそ、初めて戒を犯して悪業を作らず、三悪道の悪報もなく、人中の悪報もなく、次第に悟りの果を証し、六道の生死輪廻から脱することができるのである。


——生如法師の開示
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