呪術や起屍鬼を使って人を殺す、このような殺人の方法は非常に隠密なものであり、他人はあなたに殺人の動機ができたことを知らず、あなたが人を殺したことを知らず、あなたが血を見ずに人を殺したことを知らない。このような煩悩に随順すれば悪人であり、それを実行すれば殺人の罪業となる。このように煩悩に随順する者は、道徳を欠いた者であるだけでなく、大いなる徳を欠いた者であり、大徳であるはずがなく、菩薩であるはずもない。菩薩の隊列の中に、このような悪人や犯罪者が現れることはない。
ある人は人を殺さないし、他人が人を殺すのも見たくないが、畜生を殺す。これも殺業である。たとえば口が寂しくて肉が食べたくなり、しかも新鮮な肉を食べたくて、自分では手を下して殺さずに、他人に暗示をかけて自分の代わりに殺させる。肉が食べたいと口にすれば、他人は何とかして生き物を調達し、屠殺して料理してから食べさせてくれる。こうすれば彼の手はきれいなままで、血に染まっていないが、口はきれいではなくなり、心はなおさらきれいではない。このような煩悩に随順してよいだろうか。随順すれば殺生に属し、不可悔罪を犯す。他人を唆して殺させれば、罪はさらに重い。このような罪人が聖者や菩薩であるはずがない。
ある人は口実を設けてこう言う。我々菩薩はみな、畜生は如来蔵が変現したものであることを知っており、肉を食べるということも如来蔵が現起したものである。ゆえにすべては幻化の偽りのものであり、あなたがはっきりとそれを知っていればよい。こうして食べることは食べていないのと同じであり、殺すことは殺していないのと同じである、と。彼の言いたいことは、すべての法は如来蔵が現起したものだと知っていれば、何をしてもよく、何もしなくてもよい、ということである。ではお尋ねするが、如来蔵の大乗法を修学するのは何のためか。悪業を覆い隠し、自分の貪瞋痴の煩悩を覆い隠すためなのか。如来蔵は悪業を造るための道具なのか。如来蔵の法を学べば学ぶほど、時間が長くなるほど、悪業を造ることがますます傍若無人になるのか。仏法を学んで最後に到達するのが、このような境地なのか。
ある人は毎日如来蔵を語りながら、毎日悪業を造り、毎日限りなく煩悩を起こし、底線がない。凡夫ですらこのようではない。仏を学ばず如来蔵を学ばず、安心して良い凡夫であり、謙虚な君子である上品な凡夫でいるのは良くないだろうか。私は多くの人が邪念を吹き込まれているのに出会った。彼らは言う。こうした表面的な現象を見るな、これはすべて事相上のことだ、我々の法を見よ、我々の法はすべて最も優れた最も尊貴な大乗如来蔵の法であり、希有難得である、と。私は不思議に思う。このように希有難得な大乗如来蔵の法を学びながら、事相上のことを解決できず、しかも学べば学ぶほど事相はますます乱れ、ますます汚れて道に背馳していくなら、これらの法は何のためにあるのか。自分のために信用づけをして見栄えを飾るためのものか、それとも無明を消して解脱を得るためのものか。
解脱と言えば、ある人はまたこう言う。我々大乗菩薩は解脱しない、阿羅漢だけが解脱するのだ、と。菩薩はみな解脱しない。ここにはどんな意味が含まれているのか。つまり、菩薩たちはみな五蘊の世間法に縛られ、みな煩悩に縛られ、みな無明に縛られており、命終のときこれらの縛りのために、三悪道に縛られ、六道輪廻に縛られ、凡夫と異ならない、ということか。もしそうであれば、このような菩薩は凡夫と異ならず、やらないほうがましである。
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