衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年07月17日    水曜日     第1開示 合計4220開示

業障は意識によって消除されるのでしょうか、それとも意根によって消除されるのでしょうか。

業障とは無明の障りであり、無明の力によって造られた悪業が感招する自心への障害である。これは自心が善報を得ることを妨げ、善果を得ることを妨げ、善業を得ることも妨げる。善法は成就せず、さらに一切の法に対する智慧の認識をも妨げる。無明は最初に意根にあり、その根本は意根の無明にある。意識の無明も最初は意根から来る。意根の無明の影響と駆動を受けるため、意識も環境に染まってしまう。意根の無明が断たれた後は、意識はもはや環境に染まることがなく、さらに意根の無明に染まることもない。こうして意識は清浄となる。意識の最終的な清浄は、意根が清浄になった結果による。もし意根が清浄でなければ、必ず意識を駆り立てて清浄でない業を行わせ、染汚の業種が形成されれば、後世の業障が生じる。したがって、一切の業障は意根が清浄になった後に消除される。なぜなら意根が発端であり、鈴を解くのは鈴を掛けた人に頼むべきだからである。

意根の福徳が増し、定力が強まり、智慧も大きくなると、無明が一部分消除され、心性も一部分転変する。性障も一部分消除され、善法・善業・善果・善報・善縁に対する遮障が一部分取り除かれる。仏法を学ぶ過程での遮障も一部分軽減される。意根の無明がどれだけ消除されるかによって、心はそれだけ清浄になり、業障はそれだけ減少し、善業はそれだけ増加する。

我見を断じて証果し、明心見性する時、禅定と智慧が大いに増し、心性も同時に根本的な転変を得る。心が清浄になり、法眼浄を得ると、性障は一部分消除される。こうして三悪道の業もそれに伴って消除され、もはや三悪道で苦報を受ける必要がなくなることを示す。残りの業は人道の中で受報すればよい。衆生が一種の三昧を証得するごとに、一部分の業障が消除される。これには小乗の二果・三果・四果も含まれ、大乗の各関門も含まれ、また入地(初地・二地・三地など)も含まれる。智慧が増し、思想観念が変わり、心が変わり、性障が消除されると、相応する業は消除される。懺悔もまた宿世の業障を消除できる。なぜなら内心の意根が自らの無明・愚痴・煩悩を認識し、改めようと決心し、心が変化するからである。それにより相応する業障が消除されるか、一部分消除される。

業は定業と不定業に分かれる。定業は転じることができず、必ず受報して初めて終わる。しかし不定業は転じることができ、必ずしも受報して終わる必要はない。あるいは懺悔によって一部分を消除し、一部分を受報することもできる。たとえ定業であっても、特殊な状況では転ずることができる。特殊な状況とは、衆生の心力が強大で、智慧が強大で、禅定力が強大で、懺悔が真摯で深く、心性が極めて大きく捻じれた場合を指す。そうなれば業もまた転ずる。もし業が一切転じることができず、すべて受報して初めて終わるのであれば、この世に一人として仏に成れる者はいない。なぜなら衆生の業はあまりに多く重く、到底受報し終えることができないからである。またもし業が転じられなければ、衆生の懺悔は無意味となり、業を消すことができない。

——生如法師の開示
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