業障とは無明の障害であり、無明の力によって造られた悪業が感得する自心への障害である。これは自心が善報を得ず、善果を得ず、善業も得られず、善法が成就せず、一切法への智慧的な認知を妨げる。無明は最初に意根にあり、その根本は意根の無明にある。意識の無明も最初は全て意根から来ており、意根の無明の影響と推進によって、意識も環境に染まってしまう。意根の無明が断たれた後は、意識はもはや環境に染まることがなく、更に意根の無明による染着もなくなるため、意識は清浄となる。意識の最終的な清浄は意根が清浄になった結果によるものであり、もし意根が清浄でなければ、必ず意識を促して不浄な業を行わせ、染汚の業種が形成されれば後世の業障が生じる。故に一切の業障は意根が清浄になった後に消除される。なぜなら意根が発端であるため、鈴を解く者は鈴を掛けた者に求めねばならないからである。
意根の福徳が増し、定力が強まり、智慧も大きくなると、無明が一部分消除され、心性も一部分転換し、性障も一部分消除される。善法・善業・善果・善報・善縁への遮障が一部分除去され、仏道修行における遮障も軽減される。意根の無明がどれだけ消除されるかによって、心もそれだけ清浄になり、業障も減少し、善業が増加する。
我見を断じて証果し、明心見性を成し遂げる時、禅定と智慧が大いに増し、心性も同時に根本的な転換を得る。心が清浄になり法眼浄を得れば、性障が一部分消除され、これに伴って三悪道の業も消滅する。これはもはや三悪道で苦報を受ける必要がなくなり、残りの業は人間界で受報すればよいことを示す。衆生が三昧を証得する度に、一部の業障が消除される。これは小乗の二果・三果・四果を含み、大乗の各関門や初地・二地・三地への入地も含まれる。智慧が増し、思想観念が変わり、心が変化し、性障が消除されれば、相応する業も消滅する。懺悔もまた宿世の業障を消除しうる。内心の意根が自らの無明・愚痴・煩悩を認識し、改める決心を固め、心が変化すれば、相応する業障が消除されるか、一部分消除されるからである。
業は定業と不定業に分かれる。定業は転じることができず、必ず受報して初めて完了する。しかし不定業は転じることが可能で、必ずしも受報を要さず、あるいは懺悔によって一部分を消除し、残りを受報すればよい。たとえ定業でも特殊な状況では転じうる。特殊な状況とは、衆生の心力が強く、智慧が深く、禅定力が強固で、懺悔が殷重であり、心性が極めて大きく転換した場合を指す。この時業も転ずるのである。もし全ての業が転じ得ず、必ず受報を要するならば、この世に一人として仏となる者はない。なぜなら衆生の業はあまりに多く重く、到底報い尽くせないからである。またもし業が転じ得ないならば、衆生の懺悔は無意味となり、業を消すことができないからである。
14
+1