意根は五蘊から独立しているとも、独立していないとも言え、五蘊と和合しているとも和合していないとも言え、五蘊から離脱できるとも離脱できないとも言えます。なぜこのようなことが言えるのでしょうか。意根が五蘊から独立していないというのは、意根のすべての思惟、すべての考えや意思は五蘊を通じて実現され完成されるため、意根が五蘊を我と見做すからです。一方、五蘊の運作は意根の思惟を増強し啓発し、五蘊が意根を中心に巡り、意根もまた五蘊を中心に巡り、互いに絡み合って分離できない状態を生じさせるのです。
意根が完全に五蘊から独立し得る理由は次の通りです:(一)世界が未だ建立されていない最初の段階において、五蘊は存在せず、第八識と意根のみが存在していたこと(二)正死位において五蘊が滅し、第八識と意根のみが存在すること(三)受精卵位において五蘊が未だ生起していない時、第八識と意根のみが存在すること(四)滅尽定中において五蘊のうち微細な色蘊のみが存在し、六識の受想行識蘊は存在せず、第八識と意根が存在すること(五)昏迷時やその他の時期において五蘊のうち微細な色蘊と識蘊のみが存在する中で、第八識と意根が影響を受けずに存在すること(六)阿羅漢が無余涅槃を出た直後、第八識と意根のみが存在し五蘊が未だ現れていないこと。よって意根は五蘊から完全に独立し得ますが、第八識からは独立できません。(七)仮に五蘊が存在する状況下においても、意根は完全に独自の心行を持ち得、これらの心行は五縁によって生じるものではありません。
五蘊が絶え間なく運行する過程において、意根と五蘊には独立した次元も存在します。意根が五蘊を自己そのものと見做す、あるいは五蘊を自己の所有物として、自らの考えや意思を実現する道具と見做す行為は、既に五蘊からの独立性を含意しています。五蘊が第八識の属性を持つのは、第八識が七大種子によって変化させられたものであり、至る所に第八識の情報を顕現しているためで、実のところ五蘊全体が第八識そのものなのです。しかし五蘊が意根の属性を持つと言えるのは、五蘊が意根の習気に合致し、意根の無明の結果であるからです。
5
+1