この意味は、意根が阿頼耶識の機能作用を自己の機能作用と執着し、これが阿頼耶識の機能作用であることを知らず、阿頼耶識の見る法に随って、これらの法を全て我及び我の所有と認識し、それらが阿頼耶識から出生し、阿頼耶識に帰属し、本質的に全て阿頼耶識性であることを理解しないことを指します。それ故、意根は阿頼耶識の機能作用に愛着し、これを喜び、楽しみ、執着するのです。意根はこれらの執着と貪愛によって繋縛され、解脱を得られず、生死を捨離できない状態に陥ります。意根は根本的に阿頼耶識が何であるかを知らないため、阿頼耶識自体を執着するのではなく、阿頼耶識が生じる全ての機能作用を自己の機能と誤認し、全ての法を自己の所有と錯覚することによって執着が生じるのです。
阿頼耶識の機能作用とは何か。それは五蘊十八界の作動機能に他ならず、一切の世俗法の機能作用に過ぎません。意根はこれらの機能作用を全て我及び我の所有として認識し、この誤解は阿頼耶識を証得して初めて徐々に解消され始めます。意根が阿頼耶識を証得する時、意識と共に観察して、五蘊十八界の機能作用が全て阿頼耶識から出生し、阿頼耶識の機能作用であって、意根である我の機能作用ではないことを悟り、徐々に我執を断じます。更に相続して他の一切の法が阿頼耶識の機能作用であり、意根である我の機能作用ではないことを証得すれば、次第に法執を断じ、無明が徐々に断尽され、無上涅槃を成就し、大解脱を得るのです。
畜生道の衆生も我執と法執を有していますが、いったいどれが阿頼耶識の存在を知ることができましょうか。ただ阿頼耶識が生じるそれらの機能作用や出生した法を、自己のものと認識しているに過ぎません。意根が執着するのは阿頼耶識が生じた法であって、まさか阿頼耶識自体を執着しているわけではありますまい。仏法を学ぶとは文字を分解することではなく、字面だけを巡らせるのでもなく、その甚深なる義理究竟の義を深く観行すべきです。多くの人々の学びは表層的な意識思考に留まり、決して禅定によって深く思考観行しようとしません。故に小乗の苦・空・無常・無我を修学しながら、最終的に「五蘊は第八識に非ずして第八識と異ならず」という結論に至る者が多数存在するのです。論理的に矛盾しているではありませんか。いったい凡夫が五蘊が第八識であるという観念を有しているでしょうか。この観念を有する者は既に凡夫ではなく、最早我見を観行して断じ、第八識を実証する必要など全くないのです。
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