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日常法話

2024年05月12日    日曜日     第1開示 合計4172開示

意根が内に阿頼耶識を我として執着するとはどういう意味ですか

これは、意根が阿頼耶識の作用機能を自己の作用機能と執着し、これが阿頼耶識の作用機能であることを知らず、阿頼耶識の見る法に随って、これらの法をすべて自己及び自己の所有と認め、それらが阿頼耶識によって生み出され、阿頼耶識に帰属し、本質的にすべて阿頼耶識性であることを理解しないことを意味します。そのため、意根は阿頼耶識の作用機能に愛着し、阿頼耶識の作用機能を喜び、阿頼耶識の作用機能に楽しみ、阿頼耶識の作用機能に執着します。意根はこれらの執着と貪愛によって繋縛され、解脱を得られず、生死を捨て離れることができなくなります。意根は根本的に阿頼耶識が何たる法かを全く知らないため、阿頼耶識を執着しているのではなく、誤って阿頼耶識が生み出すすべての作用機能が自己の機能であり、すべての法が自己に帰属すると思い込み、それによって執着が生じるのです。

阿頼耶識の作用機能には何があるのでしょうか。それは五蘊十八界が作動する作用機能に他ならず、すべての世俗法の作用機能に他なりません。意根はこれらの作用機能をすべて我及び我の所有と見なします。この誤解は、阿頼耶識を証得して初めて徐々に解け始めます。意根が阿頼耶識を証得するとき、意識と共に観察し、五蘊十八界の作用機能はすべて阿頼耶識によって生み出されたものであり、阿頼耶識の作用機能であって、意根である自己の作用機能ではないことを知ります。それによって徐々に我執を断ちます。さらに相続して他の一切の法がすべて阿頼耶識の作用機能であり、決して意根である自己の作用機能ではないことを証得すれば、それによって次第に法執を断ち、無明が徐々に断尽し、無上涅槃を成じ、大解脱を得るのです。

畜生たちでさえ我執と法執を持っていますが、いったい誰が阿頼耶識の存在を知ることができるでしょうか。ただ阿頼耶識が生み出すそれらの作用機能や、生じたそれらの法を、自分のものだと思い込んでいるに過ぎません。意根が執着するのは、あくまで阿頼耶識が生み出したそれらの法であって、どうして阿頼耶識そのものを執着していると言えましょうか。法を学ぶとは文字を分解することではなく、字面の上でぐるぐる回ってはいけません。その甚深な義、究竟の義を深く観行しなければなりません。多くの人々が法を学ぶのは非常に浅薄な意識の思惟であり、決して定を修めて深く思考観行することはありません。そのため、これほど多くの人々が小乗の苦・空・無常・無我を修学しながら、結局は「五蘊は第八識に非ず、第八識に異ならず」といった結論を導き出すのです。論理すら通じていません。どうして凡夫が「五蘊が第八識である」といった観念を持てましょうか。この観念を持つ人はもはや凡夫ではなく、根本的に改めて観行して我見を断ち、第八識を実証する必要など全くないのです。


——生如法師の開示
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