如来蔵への転依が初めて成功するのは初地の菩薩の位においてであり、初地以前の菩薩は皆、転依に努力し、転依を学んでいる。凡夫は如来蔵を証得していないため、寄りかかることができず、如来蔵がどこにあるのか、どのような行相なのかもわからず、どうして寄りかかれようか?それは虚空に寄りかかるようなもので、想像上の如来蔵は現実に目に見えるものではなく、依り所にはならない。
また、凡夫は自ら如来蔵を利用することもできず、如来蔵がどこにあるのか、どのような特性があるのか、どのような作用を及ぼすのか、どうすれば如来蔵を利用できるのかがわからない。皆が如来蔵を想像しているのであり、それは憶測や幻想と呼ばれ、推測とも言われる。凡夫が推測することは許され、七、八割の推測も許されるが、それには何の役にも立たない。意識が一旦滅すると、目の前は真っ暗になり、茫然としてどうしてよいかわからなくなる。
転依が成功した印は、心性が変容し、如来蔵の心性に似て、煩悩が断たれ、智慧が増大したことである。転依はまだ成功していないが、少しずつ自らを変え、自らの煩悩を降伏させ、少しずつ智慧を増し、一定の程度に積み重なって質的な飛躍に至り、煩悩が断たれ、第六識と第七識が識から智へと転じた時、初めて転依は成功したと言える。しかしそれも初歩的な段階であり、完全に転依すれば仏となる。したがって、転依の成功の有無をもって明心証悟の有無を判断することはできない。明心証悟には証悟の対象と内容が独自に存在し、転依という対象はない。
仏法は非常に混乱しているが、その原因は、多くの人がその道を歩んだことがなく、理解と推理に推測を加えているためである。たとえ推測が八九分通り当たっていても、それは依然として非常に不正確である。なぜなら、結局のところ自ら目で見たわけではないので、心の中では確信が持てず、猫を手本に虎を描いても描かれたものは虎ではないからだ。
2
+1