夢の中で夢を知るのは誰が知るのか?目覚めている時に塵境を知るのは誰が知るのか?夢の中でも外でも第六識・第七識には知覚があり、一切の法を知るのは主に第六・第七識の知覚による。第五識は現実の五塵境しか知覚できず、夢中の境を知ることはできない。なぜなら夢中には五塵境が存在しないからである。意識の知性は色身と大きく関係しており、色身に障害があると意識の知覚は弱くなるか断滅する。四禅八定を得た者は色身に障害がなく、意識の知覚は清明で広大であり、眠っているか否かに拘わらず清明に知覚し、どれだけ酒を飲んでも酔わず、酒が大脳中枢神経を麻痺させることがなく、したがって意識は影響を受けない。
意識の知覚はまた意根の知覚とも大きく関係する。一般的に意根は一切の法を知るが、ただし如実に知るか否かが問題である。意根が如実に知るこの部分が如何に意識に影響を与え、意識をもって知らしめ、知覚したものを適時に処理するかは、二つの識の間のコミュニケーション能力に関わる。いわゆるコミュニケーション能力とは智慧であり、意識の知る所が如何に効果的に意根に影響を与え導くかもまた智慧の如何に関わる。智慧は禅定と密接に関連し、禅定は心を静寂・平和・沈着させ、思考能力を増強し、智慧力を大きくする。このように二つの識が相互に及ぼす影響力は大きくなる。禅定はまた色身を無礙ならしめ、色身が無礙であれば意識に障害がなく、知覚は敏捷に通達し、効果的に意根に影響を与えられる。逆に意根も効果的に意識に影響を与え、二者が相通じ合えば、一切の法を知ることに通達し障害が少なくなる。
醒夢一如は修行によって得られる智慧の境界であり、夢であると知り夢境に囚われないことが智慧である。この修行は主に禅定の修行を指し、禅定は不可欠な修行段階である。禅定があって初めて智慧が開発され、第六・第七識の知覚がより如実如理となり、より真実に細やかに広大に知ることができる。睡眠蓋を除去して初めて深い禅定が生起する。禅定が深い者は目覚めている時の思考が明晰で、夢中でも倒錯せず、目覚めている時と同様に境界を無礙に了知する。
普通の人の知覚には障害があり、俗にいう神通がない状態である。神通を持つ者の知覚には障害がなく、他心通・天眼通などがある。これが定慧の功徳果報である。夢中で夢を知ることは禅定が非常に優れた者が心清浄を得た果報である。済公和尚は四禅八定を得て神通を持ち、どれだけ酒を飲んでも神経系統が影響を受けず麻酔されず、意識は常に清明で一切の境界を如実に観察し知ることができた。普通の人は眠ると意識が滅し、意根が意識に依存して境界を了知するこの部分の機能が働かなくなる。そのため夢を見る時、意根の弁別力は微弱で夢と知らず、夢中の独頭意識の弁別力も微弱でやはり夢と知らない。修行を積んだ者は禅定力が強く色身が無礙で第六・第七識が清明であるため弁別力が強く、夢を見る時に夢と知って迷わない。
窺基大師は四禅八定を得て神通を持ち、夜眠る時非常に清明で普通の人の目覚めている時よりも清明であり、第六・第七識が鋭敏であった。眠った後で蚤の脚が落ちて痛くて鳴く声も、窺基大師は聞き分けることができた。これが禅定力神通力の功徳である。眠りながら蚤の鳴き声が聞こえるのは、眠っていないことを意味するのか?普通の人にとって睡眠は一種の蓋であり、心を遮蔽して見えず聞こえず、あたかも死人の如くならしめる。睡眠蓋を滅した者は、必要な睡眠が少量で色身を滋養するに足り、禅定は初禅以上に達し、その心は清明で遮蔽が軽微、あるいは全く遮障がなく、睡眠時必ずしも意識を完全に断絶せずとも睡眠は充足する。これは普通の人とは異なる。
特に神通を持つ者は、その睡眠は目覚めている時と同様で、むしろ普通の人の覚醒時よりも清明である。古来、武術に優れた者は睡眠も浅く警戒心が高い。この警戒心は意識的なものと言えるが、意根にも確かに警戒心があり、その警戒は意識の機能作用よりも強い。故に意根を離れて意識の機能作用を説き明かすことはできない。睡眠と昏沈は同類で、共に蓋障に属し、識心の光明を遮蔽する。睡眠蓋障が除去されて初めて初禅定が現れる。眠る時ますます昏沈するのは禅定の功夫が良くないか、あるいは禅定がなく蓋障が重いことを示す。夢中でますます迷うほど禅定がなく、酒に酔いやすいほど色身の障害が大きく禅定がない。禅定功夫の深い者は色身を調理し環境要因に影響されず、六識の機能作用の発揮を妨げない。故に定力は非常に重要であり、たとえ仏法を学ばず修行しなくとも、禅定を修めればその受用は非常に大きい。
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