原文:彼がこのようにして、能く障害を断つ粗品の我慢、及び涅槃に対して増上意楽を摂受し適悦することを得て、ついに後後の観心の所有する加行を捨離し、無加行無分別心に住する。その時、彼の心は滅したように見えるが実際には滅しておらず、所縁がないように見えるが実際には無縁ではない。またその時、彼の心は寂静であり、遠離したように見えるが実際には遠離していない。またその時、美しい睡眠に覆われることなく、唯だ分明にして高下なく、奢摩他行である。
釈:修行者はここまで修習すると、観行を障害する粗重な我慢を断除し、涅槃に対して更に一歩進んで増上意楽と愉悦の楽しみを生じ出すことができ、このようにして後続の観心の全ての加行を捨離し、加行のない無分別心に住することができる。この時、修行者の心は一見滅したようであるが実際にはまだ滅しておらず、何も縁取るものがないように見えるが決して無縁ではない。修行者はまたある時にその心が寂静となり、六塵の境界から遠離したように見えるが実際には未だ遠離していない。修行者がこの時点では心がまだ香しい睡眠によって覆われておらず、ただ非常に分明で高低のない奢摩他行が現れている。
瑜伽を修習する行者は、現観を障害する粗重な我慢を断除し、涅槃に対して増上意楽を生起させた後、もはや努力して加行の功夫を行う必要がなくなる。この時、心に分別がないように感じ、一見滅したように思われるが実際にはまだ滅しておらず、心は何も考えていないようでありながら実際には想念があり、心が塵境から遠離したように感じるが実際にはまだ遠離しておらず、かつこの時点では睡眠の蓋障が除かれておらず、睡眠は依然として重く、未だ清らかな明るさを得ていない。ただ分明な無相の心のみが現れ、法の高下を取らず、禅定の中に住して、四念処や四聖諦を観じない。
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