衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
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日常法話

2022年10月17日    月曜日     第2開示 合計3707開示

どのように迅速に入定し、法義を参究するか

ここに、素早く禅定に入りつつ参究と観行を同時に行える方法をご紹介します。これにより、皆様が速やかに参究の境地に入れるようお手伝いいたします。

我見を断つには、五蘊の中の「我」が重要です。この「我」とはいったい何なのかを思量します。坐中で思量する場合、座に着いて結跏趺坐した後、呼吸を整えます。通常は数回深呼吸し、身前の任脈を妨げなく通りやすくし、頭脳を明晰で昏沈しない状態にします。その後、ただひたすら「我」を提起します。初めは意識心の中で「我」という文字とその意味が現れます。そして、意識がこの「我」に対する疑情を意根に伝えます。意根に渡した後は、意識の心念は次第に消えていくべきで、心が空になったように感じ、何の念もなくなります。

しかし心は本当に空になったわけではなく、意根のところでこの「我」という疑問が懸かっています。非常に深く感じられ、あるようでありないようで、掴めるようで掴めないような状態です。この時、意識は念を動かしてはいけません。意根の心の中にある「我」への疑情を、ますます鮮明に、ますます深く、まるで心に刻み込まれたように確固たるものにしていきます。こうして禅定が生じます。一心不乱に「我」を参究するこの時、意識は呆けたように消え去ったようになりますが、意根はそうではありません。意根のその思量は意識では容易に捉えられず、感じ取るのも容易ではありません。しかし、定力が増し、心が微細になった時には、なお意根の深い深い思量を感じ取ることができます。それは綿々と絶え間なく、深く細やかで極めて深く細やかなものです。

この時、心は極めて静かであるべきです。あの「我」への疑い以外、心には何もないはずです。これは甚深なる禅定であると同時に、一心不乱の参究と観行の工夫であり、定と慧が等しく保たれ、偏りがありません。禅定が深いため、身体は非常に心地良く感じられ、頭脳は非常に明晰です。この中で、もし昏沈を感じたり、無念の定に入ろうとしたりするならば、意識は再び意根に注意を促し、「我」という文字を提起し、注意力の全てを「我」という一点に置き、心を空にせず乱さないようにします。そうすれば一時間はあっという間に過ぎ去り、起座する時には神気爽快で精力がみなぎり、精神は愉しい状態を感じるでしょう。意根が思量して出した結果は、明確な場合もあれば、あまり明確でない場合もありますが、心には確信があり、以前よりははるかに明らかになっているはずです。

明確な答えや結果が現れず、定慧等持の三昧が現れず、我見が断たれていない限り、今後もこのように努力を続け、満足のいく結果が得られるまで行います。この方法に基づいて、次に他の明らかでない法義を順次思量していきます。例えば、色蘊を思量し、受蘊を思量し、想蘊を思量し、行蘊を思量し、六根・六塵・六識を思量します。いかなる法義であってもこのように思量すれば、根本から疑惑を断ち切り、三結(三縛結)を断つことができます。

初めて座につく時、意根は経験がなく、思量者の役割に入ることができません。役割に入った後も、何を思量すべきか分かりません。これには意識が意根を導き、どの方向へ思量すべきかを示す必要があります。ただし、あまり多くを指示してはいけません。毎回、ほんの少しだけ、ぼんやりと提示するだけで十分です。意根がひとたび専心して思量できるようになれば、ますます明らかに、ますます透徹していきます。出定後、意識は整理・帰納を行い、意根が思量して出した全ての法義を再び思惟します。これにより印象が深まり、確信を得ることができます。

坐禅中にこのように工夫するだけでなく、歩行や物事を行っている最中にも同じように工夫すべきです。ただし、それはより困難であり、精力は分散され、同じ効果を得るのにかかる時間は遥かに長くなりますが、方法は同じです。意根の疑情が深い時は、歩くこと、坐ること、臥すこと、すべてに専心して工夫することができます。なぜそうなのか、その中に何か奥秘があるのか、そうすればその所以を知ることができ、法の来歴を探究し明らかにすれば証悟に至るのです。

——生如法師の開示
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瑜伽師地論 第三十四巻(二十三)

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