衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年02月02日    土曜日     第1 回の開示 合計1227回の開示

仏教の修行は技術的な側面か、それとも心性の問題か(2)

仏道修行が単に技術的な精進であるならば、なぜ日夜座禅修行を30年50年続けても初禅定を得られぬ者がいる一方、1~2年で初禅定が現前する者がいるのか。30年悟りを開いても初禅の影さえ見えぬ者もいれば、仏法を学び始めて間もなく理論に触れ、少し観行しただけで各種の果位を証得する者もいる。仏法の多くの名相が未整理であっても、観行の智慧は既に生起している。

もし仏道修行が技術的な精進であるなら、菩薩の六波羅蜜は技術的修行か、心性の修行か。布施波羅蜜は技術的次元に属するか、心性の次元に属するか。持戒は技術的か心性的か。忍辱は技術的か心性的か。禅定は技術的か心性的か。

智慧について、心性の良くない者の智慧とは如何なるものか。この種の智慧は菩薩や仏と相応するか。精進には正精進と邪精進があり、邪精進は技術的次元に属し、正精進は心性を修めることである。下心ある者が仏法で真実の利益を得られるか。菩薩が真に成就した指標は慈悲喜捨であり、心性が転じなければ永遠に慈悲喜捨の心行は生じず、菩薩の果位は永遠に満足されない。

阿羅漢と菩薩の心性、いずれが勝れているか。いずれの道業がより増上するか。いずれが最も仏に愛されるか。いずれが最初に成仏するか。技術的次元の修行者と心性的次元の修行者、技術的なる者を仏は焦芽敗種と罵り無為の坑に堕ちたと説かなかったか。

仏道修行の最終的な結果は必ず徳才兼備、才あるのみならず徳を要す。徳なき場合、才は偏才となり邪道に用いられ、悪業を造作しても気付かぬ。世に才ある者は多いが、必ずしも善業に用いるとは限らず、悪業に用いる者も多い。悪業に用いるなら、むしろ才なき方がましである。

仏道修行者においては徳を第一位に置くべきである。徳あれば才なきを憂えず。才のみあり徳なき者は、才いかに大きくとも正用されない。徳あり才なき者は、徳才兼備の人材に育成可能で、その菩薩的心性により仏力加持によって速やかに道を得る。故に仏道修行は単なる技術的作業ではなく、主として心性の修養である。無我無私の者こそ真の菩薩であり、内心に自己のみ存在し個人の私利私欲に囚われた者は真の菩薩ではない。

技術的修行は心性修養より何倍も容易である。技術は工夫研究すれば必ず文字から何かを引き出せ、利発さえあれば多くの技術を習得できる。しかし心性はどうか。百年かけても心性を降伏させ得ず、性質は改め難い。技術を習得した菩薩も心性を降伏させなければ真の菩薩ではなく、名目上の偽菩薩、詐称者に過ぎず、永遠に菩薩の作用を起こせない。

多くの者が苦心惨憺して日夜観行・研究に励むが、自らの心を研究せず、如何に仏法の科学技術を研究しても我執と利己性を降伏させられず、真に我見を断ち切れず、真に明心証悟できない。このような者は菩薩ではなく、たとえ仏法の科学技術を掌握していても同然である。

現代において、仏道を学ぶ者の多くは単に技術的作業に没頭し、自らの心性に工夫を凝らさない。技術は習得するが徳が地位に伴わず、至る所で自我を誇示し、結局混乱を招来する。仏道学習は頭角を現すため、自我を逞しゅうするためであり、決して自我の降伏や無為、無我や煩悩からの解脱を目指すものではない。学べば学ぶほど高慢になり、我執が強まり、世は乱れ、ついには世の中全体が混乱に陥る。多くの者の仏道学習は出世のため、他人を踏み台にするためであり、自我を消滅させようとする意志は皆無である。これは我見を断つことか、それとも我見を増長することか。このような仏教の発展は最終的に天下を大混乱に導く。

故に真に自己を修め上げるためには、両手で掴むべきである。心の田地に工夫を凝らし自らを調柔すると同時に、観行参究にも精進し、努力して実証を重ね、真の意味での聖賢となるべきである。

——生如法師の開示
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